あるバイトの日の思い出

 学生時代、個人経営の居酒屋でバイトをしていた。
 今にして思えばその店で働くことになったのも奇縁だったが、学校を卒業するまで大変お世話になったバイト先だった。

 大学4年の夏、私は大変に焦っていた。

 就職先が決まらない。

 当時の就活は3月から説明会解禁、6月から面接解禁、といったスケジュールが経団連から提示されていた公式ルールだったと思う。
 しかし、実際にはもう少し前倒しで事は進んでおり、早い人は6月1日に大手企業からの内定をもらっていた。当然、真剣に就活に臨んだ人から順にその努力が報われる形になっていた。
 私は就活をナメていた。
 企業研究もしなければ自己分析もまともにせず、もちろんOB訪問なんてものもやらなかった。
 そこまでしてやりたいことや働きたい会社なんて特になかったからだ。
 あんまり頑張りたくないなあ、と思いながらしょうもないESを書いては落とされ、ショボい受け答えをした面接で落とされ、見ず知らずの人事担当者から祈られる日々だった。
 頑張りたくはないけど就職先が決まらないのはまずい、というゆとり思考で、焦りだけを抱えたまま季節は真夏へと移ろった。
 努力をしなかったツケは当然後日の私に回ってくるわけで、8月になっても内定はひとつもなかった。この先未来はないんじゃないかと日を追うごとに気分は重くなるが、それとは関係なく日々のタスクは積み重なる。
 タスクと言っても大したことではなく、せいぜいバイトと卒論の準備程度のことではあったけれど、就活と卒論は見通しの立たない大きな壁が霧の中にあるような状態で、バイトどころではない、というような気持ちを抱えながら、それでも笑顔で接客をしていた。

 バイト先は小さな店で、調理をする店長とホールに出るバイトが2人の計3人で店を回すシフトになっていた。
 そんな小さな店ではあるが、隠れた名店として人気があり、その近郊にオフィスのある大きな会社に勤めるビジネスマンが主な客層だった。肌感覚だが、割合としては男性客7割、平均年齢40〜50歳といった感じで、雑な言い方をしてしまえば、お金に余裕のある美味しいものが好きなおじさんがお客さんの多くを占めていた。
 ホール担当として料理やお酒を提供する中で、お客さんから話しかけられることが多かった。
「大学生?」
「はい、今4年生なんです」
「あ〜、じゃあ就活?」
「そうなんですよ〜、なかなか難しくて」
 4年生、といえばやっぱり二言目には就活の話が出る。まだ何も決まっていないという苦しさはあるものの、雑談の内容としてはこれ以上ないホットな話題で、私は自分から就活が上手くいかないことをネタにしていた。
「どういう業界いきたいの?」
 お客さんからすればそんな雑談の延長かもしれないけれど、ただのバイトにそこまで踏み込んでくれることが私にとっては嬉しかった。
「○○業界に勤めたくて」
 やりたいことや行きたい会社はなかったけれど、携わりたいと思う業界は明確にあった。というか、ほとんどその業界に絞って就活をしていた。
「そっか〜……」
 たいていのお客さんはそこで難しい顔をした。私の希望は斜陽産業と言われて久しい業界だったから。
「頑張ってね」
 そう結ばれることがほとんどだった。客として来た店のバイトの子の就活の面倒を見る義理なんてないのだから、当たり前のことだ。
「ありがとうございます」
 そう笑顔で答えていた。

 学校では就活の話題は下火になりつつある一方で、バイト先ではその日も「大学生?」とお客さんから話しかけられていた。
「はい、今4年生なんですけど、就活終わらないんですよ〜」
「どんな業界行きたいの?」
 少し踏み込んでくれるお客さんだった。
「○○業界です」
「それならね、××って会社と△△って会社が面白いと思うよ」
 具体的な会社名が出てきたことに驚いた。そして、真面目に業界研究をしていなかった私は知らない会社だった。
「帰ったら調べてみます!」
 その2社の名前を忘れないようメモを取り、帰宅したその日のうちに教えてもらった会社名を調べた。真面目に取り組んでいない私もさすがに焦っていた。
 片方の会社は近隣での説明会が終わってしまっていたが、もう一方の会社はまだ受け付けているようだった。
 申し込みをしてみようと思っていた中、大学で行われる企業説明会が開催されるというので、そちらにも行ってみることにした。もらったリストの中に、まさに申し込みをしようとしていた、あの日のバイトで聞いた会社名があった。
 奇妙な偶然、もしかすると運命かもしれないと思った。
 そこからはトントン拍子に話が進み、なんとその会社から内定が出た。嘘みたいな本当の話である。もちろん、内定通知をいただいた電話で即決した。

 紆余曲折ありながらも、私は今もその会社で働いている。
 その会社を教えてくれたお客さんは常連の方ではなく、その後バイトの卒業まで会うことはできなかった。お名前もわからず、勤め先もわからない。今となっては調べる術もないが、もし、またお会いすることができたら、心からの御礼とご報告をしたい。
 私の就活は、バイトによって救われた。

#ビジネスの出会い

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