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マダラ蝶【8】

 藤永から連絡が入ったのは、それから2日後のことだった。空は青く澄んでいて、爽やかな風が吹く気持ちのいい朝だった。

「おはよう。花畑に来てごらん、びっくりするよ。じゃあ、気を付けて」
 藤永が少し興奮しているのが声から感じ取れた。いよいよ彼らがやってきたのだろう。咲希は慌ててカメラを手に取ると、青色の自転車に勢いよく跨った。
 咲希はサドルから腰を浮かせると、少し前屈みになってペダルを漕ぐスピードをあげる。周りの景色を眺める暇もないくらい、ただひたすらに自転車を漕ぎ続けた。
 花畑の近くに差し掛かったとき、咲希の目の前をひらりと何かが通り過ぎた気がして、咲希は慌てて自転車のスピードを緩めた。するとまた、咲希の目の前に何かがひらりと姿を現した。今度はそれが蝶であるとはっきりと確認ができた。
 身体の中をなにかがカッと駆け巡っていく。咲希は蝶を追いかけるようにして、夢中で再び自転車を漕いだ。

 花畑の前には、白いワゴンが停められている。それが藤永のものであることに間違いはない。咲希は車の近くに自転車を停めると、急いで藤永の姿を探した。
 しかし、藤永の姿を見つけるよりも先に、咲希は自分の眼に映る景色に目を奪われることとなる。目の前には、変わらず美しく花を咲かせるフジバカマ。そしてその上には、くるり、くるりと宙を舞う蝶たちの姿があった。それも1頭だけではない。10、いや20頭。もしかするとそれ以上のたくさんの数の蝶々があたりを飛び回っている。

「うそ…。こんなことって…」
 天国や楽園というものがあるとするならば、きっとこういうところなのではないかと咲希は思った。花に囲まれ、頭上には蝶たちが優雅に飛び回っている。爽やかに吹き抜けていく風がフジバカマの花たちと戯れ、鈴虫たちがその美しい声で景色に彩を添えていた。カメラを構えることも忘れ、ただ茫然と目の前の景色に見入ってしまう。
「驚いただろう?」
藤永の声に、咲希はハッと我に返った。振り返れば、輝きに満ちた笑顔の藤永がそこに立っている。
「夢を見ているみたい」
 藤永は咲希の隣に並ぶと、右肩にぽんっと手を置いた。二人はしばらく、目の前の蝶たちを眺めた。自由に宙を舞い、ときに羽を休めて蜜を吸う彼らをただじっと見つめ続けた。
 茶色に水色のまだら模様。絵の中に描かれただけの、どこか想像上の生き物に思えたその蝶が、今まさに目の前を飛び回っている。どのくらいそうしていたのだろうか。藤永の携帯が音を立てたのをきっかけに、咲希はカメラを構えた。

 じっとカメラを構え、望んだ一瞬が訪れるのをただただ待つ。羽を広げた瞬間を切り取りたいとじっとカメラ越しに蝶を見つめるも、優雅に蜜を吸う彼らはなかなか羽を広げてはくれない。そうかと思えば、何の前触れもなくひらっと羽をひろげ、宙へと羽ばたいてく。
 宙を舞う彼らを捉えるのはもっと難しく、ひらりとすぐに身体を翻すその動きは、カメラで追うことが難しいほど俊敏だった。カシャカシャとシャッターを切る無数の音が鳴り響く。咲希は夢中になって彼らの姿を撮り続けた。

「…さん。咲希さん」
名前を呼ぶ藤永の声が聞こえた気がして、咲希はカメラから目を離す。
「はじめて会った時もこんな風だったな」
藤永はそう言ってハハハッと笑った。
「僕はそろそろカフェに行くよ。写真を撮り終わったら、くるみ堂においで。待ってるから」
 そういって藤永は、停められた車の方へと歩いて行った。咲希は藤永の後ろ姿をカシャッと一枚、カメラに収める。それから咲希は藤永の方にくるりと背を向けると、優雅に宙を舞う彼らをファインダー越しに見つめた。

♦︎

 咲希がくるみ堂に姿を見せたのは、お昼近くのことだった。カラカラと扉を開ければ、ちょうど二階から降りてくる薫と出くわす。
「咲希ちゃん、見た?マダラ蝶!すっごく幻想的じゃなかった?」
 薫もあの景色を見たらしい。その口調には、どこか興奮の色が浮かんでいる。
「想像以上に幻想的で。現実かどうか、一瞬分からなくなってしまって」
 そう言う咲希に向かって、薫はうん、うんと頷いた。「どうぞ」という薫の言葉で、咲希は靴を脱いで二階へと向かう。

 二階では藤永が、出会った日と同じようにノートパソコンを広げていた。キーボードのカタカタッという音が、木の空間に心地よく響いている。二人に気付いた藤永は、キーボードを叩く手を止めてこちらを見た。
「待ってたよ」
その柔らかな笑顔に、咲希からも思わず笑顔がこぼれる。
「昨日、あそこで何頭か蝶を見かけたときに連絡しようか迷ったんだけどね。もう1日待ってみて正解だったよ。まあ、今日の光景は想像以上で僕も驚いてしまったけど」
 そう言って藤永は、壁に掛かった水色の絵に目を向けた。つられるようにして、咲希もそちらに視線を移す。

「もうここを立つんだろう?」
「はい。また来年、あの花の咲く時期に戻ってきます」
「なあ。一年に一度と言わず、いつでもここに戻っておいでよ。僕や薫さんはいつでもここで君を待ってるから」
「気が向いたら、なーんて。そう言ってもらえて嬉しいです。本当にありがとう」
 そう言って咲希は、藤永の方へ心からの笑顔を向けた。その姿が、いつかの菜月の姿に重なる。藤永は少し目を見開いたあと、眉をハの字にしながら頭を掻いた。

窓の隙間から、ふわりと風が入り込む。青空の広がる窓の外では、浅葱色の蝶が羽を広げてひらりと優雅に宙を舞った。

【完】

【7】◀︎ / 完

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