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明治ゆるふわストヲリイ◆ワン・ツー・スリー!明治の手品!編

奇術、と聞いて最初に何を思い浮かべるでしょうか。

なんだか怪しげなうさんくさい、忍術やら妖術やらの仲間かと思う人もいるかもしれませんがご安心ください。
奇術とは、今で言うところの手品なのです。

明治時代には、この見世物としての手品が大きく発展し、皆の目に触れる機会も多くなりました。そんな手品は人気を博し、ついには明治天皇陛下の行幸時の余興にまで呼ばれた奇術師もでてきます。

今回はそんな明治の手品のお話です。

●日本の手品の歴史、意外と古い

前述でいかにも手品は明治誕生みたいな雰囲気を醸し出しておいて何ですが、日本における手品の歴史を掘るともっと古いのです。

1696年(元禄9年)に刊行された「神仙戯術」という書物にでてくる「紙蝴蝶飛」というものがありますが、これは蝶の形に切った紙をまさに蝶がひらひらと飛ぶようにするといった手品。

タネとしては飛ばす為に特殊な溶液を塗って飛ばしたといいます。
この溶液、アスベストを含む物を使っていたようなので当時の人は健康面は大丈夫だったのかと心配にならざるをえませんがそれはともかく。

他にも、1727年(享保12年)では糸を使って蝶を飛ばす手品が載った書があったり、1827年(文政10年)には髷と畳に糸を針で止めておき、その中間に蝶をつないでから扇子であおいで飛ばすといった手品も存在しました。

手品は明治よりもずっと前から存在はしていたのですね。
それにしても飛ばすのが蜂とかトンボなどではなく蝶にこだわってるあたり、日本人の蝶々好きが伺えます。

こういった日本で古くから伝わってきた伝統的な手品の事を「手妻」とか「和妻」と言います。

さてさて、時を明治時代に戻しましょう。

明治初年、外国人居留地に住んでいる西欧人は570人程度にまで及んでおり、その中には同じ西洋人をお客様とする為に入ってきた演劇やコンサート等を披露する西洋芸人もいたのでした。

そうなると彼らが芸をお披露目するコンサートホールが建てられる事になり、本町通り(現在の中区山下町)へ「ゲーテ座」が誕生。
このゲーテ座は居留民の文化的イベントの中心を担ったほどだったのです。

そうこうしている内に海外から来日するマジシャンも増え、同時に海外のマジシャンの手品を目にする日本人も増えていったのでした。

ちなみに特に明治の日本人が驚いたのはヴァネクというマジシャンの首切術
助手の首をはねて、お盆に乗せた上で客席に行って実際に触らせ、その後胴体と首を繋ぐというものでした。
今の人間が見てもどうなってんだ?ってビックリしそうなマジックが既にその頃誕生していたのですね。

そのせいもあってか、明治時代には西洋手品を扱う日本人手品師が続々と現れるようになります。
代表的なものでは、当時人気を博した「帰天斎正一」や「ジャグラー操一」といったいかにもマジシャンみたいな名前の人々。彼らは基本、寄席で芸を行っていました。

さて、そんな手品師たちの中でご紹介したいのは、寄席で行う手妻から脱却し、一座を率いて大きな舞台で演じるという今のスタイルの主流を作ったマジシャンも登場し、今の手品師に繋がるスタイルを作り上げた人物。

その人とは、松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)

●福井の小坊主がスーパーマジシャンになるまで

松旭斎天一は、1853年(嘉永6年)に福井県の下級武士の家の子に生まれました。
幼名は八之助。8人目の子だから八之助。名は体を表しています。

彼は数えで7才の時に、親元を離れて叔父さんのお寺へ預けられることになります。
しかしこの八之助くん、寺の小坊主にあるまじき目立ちたがり屋

何でもかんでも目立つ事をしたくてしょうがない腕白坊主で、真言の秘術の真似事をみんなの前で試したりと、毎日騒動を起こす手のかか……元気な子でした。

その後、寺を出てからは瑞山と名乗り各地の寺を流浪しつつ、明治維新頃には淡路の売れ筋の前座で、幼い頃より好んで嗜んでいた講釈を始めました。

1876年(明治9年)の服部松旭と名前を改めた頃に、大阪での見世物小屋で西洋手品と出会います。

松旭さん、それはもう感動したようで、その後、長崎で出会った見世物も行っていた貿易商のジョネスに西洋手品を学び、そのまま一緒に国外へ巡業に出て、更に西洋手品の研鑽を積む程。

帰国してからは、著名な興行師の前でイギリス帰りと嘘をついて手品を行ったり、当時人気絶頂の西洋手品師「帰天斎正一」にあやかって芸名を「松旭斎天一」に改めます。いかにも間違えそうな名前にするあたりやり手です。

そうこうして1880年(明治13年)には先に記述した興行師のバックアップのおかげもあって、ついに「天一一座」を旗上げしたのです。

人気の演目は「十字架の磔」「陰陽水火の遣い分け」といった、現代人の私たちが聞くと胡散臭い名前ですが、前者は磔にされて槍で刺され絶命したはずの女性が別の場所から元気に登場するという手品。後者は演者の体や小道具などから水がほとばしるいわゆる「水芸」のことですね。

特に磔芸は刺された女性が鮮血を吹き出すというパフォーマンスもある為か、あまりにも真に迫っているおかげで観客から失神者が出るといった程で新聞では「教育上好ましくない!」とか言われちゃう程。

確かに現代の刺すタイプの手品でもなかなか血がブシャーッとする演出をするものは見る機会がないので、なかなかショッキングな手品だったのは容易に想像できます。

その後も養子に迎えた子に天二を名乗らせ後継者としたり、女性の奇術師松旭斎天勝(しょうきょくさいてんかつ)を育てたりと、後継者を育てるのにも余念がありません。

また、国内はもちろん国外でも公演を行ったり、果ては上野の博物館で皇后の御前公演や西郷従道伯爵の家で公演を行うまでになりました。いやあ、皇后さまや政府の重鎮に呼ばれる奇術師というだけで、更に箔がつきますね。

この頃になると、「手妻」や「手品」などなど、総称して「奇術」という名前に定着させたのもこの天一さんだったのです。現代ではなかなか聞かなくなりましたけど、明治時代の人々には手品は奇術と呼ばれていたのですね。

その後、一座を解散して後継者の天二と天勝たちとアメリカへ行き巡業したり、伊藤博文に呼ばれてシアトル領事館で公演するなど忙しい日々を送ります。

しかし、1911年(明治44年)になると老化による視力の低下をきっかけに引退を決めます。その翌年には内臓の病の為に明治時代を生きたスーパーマジシャンはこの世を去る事となるのでした。

●明治時代を彩る摩訶不思議、それは奇術

さて、今回は明治時代における手品と、その明治時代を代表する奇術師・松旭斎天一の紹介をしました。
天一に関しては、寺育ちという生い立ちもあってか、当時ではなんだか教祖的な雰囲気を持っていて、彼を霊能者だと信じて疑わなかった人もいたのでした。そのあたりはなんだか明治時代っぽいですね。

ちなみに筆者は、今に繋がる手品……それこそ切断した首が元に戻ったり、本来飛ぶはずのない紙が不思議と飛行したりといった手品が明治時代には当たり前のように存在していた事に、今回資料を見て驚いています。皆様はいかがでしたか。



◆参考文献◆「実証・日本の手品史(松山光伸・著)/東京堂出版」「幕末明治見世物事典(倉田喜弘・著)/吉川弘文館」

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