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論語「君子を躬行することは」
文は吾れなお人のごとくなること莫からんや。君子を躬行することは、則ち吾れ未だこれを得ることあらざるなり。
机上の学問は、私も人並みに出来ないことはない。しかし、君子の行ないをみずから実際に行うことは未だに出来ていない。
述而第七 32
論語「述べて作らず」
述べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む。ひそかに我が老彭に比す。
私は古くからの道を伝えているだけで、私が作った新たな説を述べているのではない。古(いにしえ)の道を信じて愛しているだけだ。密かに尊敬する老彭(ろうほう、殷の賢大夫)にあやかりたいと思っている。
述而第七 1
論語「己立たんと欲して」
仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬(たとえ)を取る。仁の方(みち)と謂うべきのみ。
仁者というのは、自分が立ちたいと思えば人を先に立たせ、自分が達したいと思えば人を先に到達させる。人のことを自分のことの様に考える。それが仁の考え方というものだ。
雍也第六 30
論語「人の生くるは」
人の生くるは直し。これを罔(し)いて生くるは、幸にして免ぬがるるなり。
人が生きていられるのは誠実だからだ。それを無視して生きていられるのは、運良く罰を免れているに過ぎない。
雍也第六 17
論語「質、文に勝れば」
質、文に勝れば野。文、質に勝れば史。文質彬彬、然り。君子の後たらん。
どんなに中身が良くても外見が悪ければ粗野な人に見られるし、外見が良くても中身が無ければ、表面を飾るだけで誠実さに欠ける役人と同じだ。中身と外見がほどよく調和してこそ、立派な人物と言える。
雍也第六 16
論語「誰か能く出ずるに」
誰か能く出ずるに戸に由らざらん。何ぞ斯の道に由ること莫きや。
家に出入りする時は必ず戸口を通るのに、どうして人として行うべき道を通ろうとしないのだろうか。
「仁徳の道」をきちんと通る人はとても少ない
雍也第六 15
論語「奔りて殿たり」
孟之反、伐らず。奔りて殿たり。将に門に入らんとして、其の馬に策ちて曰く、敢えて後るるに非らざるなり。馬進まざるなり。
孟之反は自分の功を誇らない人だ。敗戦の退却時に、味方を守るため身を呈して殿(しんがり)を務めた。城門にたどり着いた時、馬に鞭打ちながらこう言った。「殿になったのは馬が進まなかったからだ」と。
雍也第六 13
論語「力の足らざる者」
力の足らざる者は、中道にして廃す。
今、女は画(かぎ)れり。
力が足りないかどうかは、力の限り努力してみなければわからない。本当に力が足りなければ途中で倒れるまでのことだ。挑戦する前から、自分の力に見切りをつけてはいけない
雍也第六 10
論語「顔回なる者有り」
顔回なる者有りて、学を好みたり。怒りを遷さず、過ちを弐びせず。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり。
顔回という者がいて学問を好んでいた。腹の立つことがあっても、怒りをほかの人にぶつけたりはせず、過ちを二度と繰り返すことはなかった。不幸なことに短命であった。今はもうこの世にはいない。今もなお彼ほど学問を好む者を聞いたことがない。
雍也第六 2
論語「一箪の食、一瓢の飲」
賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人は其の憂に堪えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。
回(孔子の第一の弟子、顔回のこと)は立派だ。一膳の飯と一椀の汁物、貧しい長屋暮らし。人はその苦しみに堪えられないものだが、回はそんな境遇にあってもただ道を楽しみ、変わることがない。回は立派だ。
雍也第六 9
論語「已んぬるかな」
已んぬるかな。吾未だ能く其の過ちを見て、内に自から訟むる者を見ざるなり。
残念だ。私は今まで、自分の過ちを認めて、自ら反省し、改める者を見たことがない。
公冶長第五 26