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現代アートにおける理念形成の懐事情

複雑なことを言ってるのに、変に簡単そうなことも言ってるから、じゃあおたくの会社はどう儲けを出してるの?と聞いた方がはやいのに、保険屋は教えてくれない。
そんな、田舎から出てきて、芸大でよくわからない印象批評に右往左往しているファインアートの学生向けの記事。
そして、延命のフェーズに入ったことのちょっとした備忘録。

近代芸術はマテリアルの問題に行き当たった。
やることがなくなくなると、「アートは作品である」という初期条件のみが残され、存在理由が希薄となる。
自然、「作品は材料ではない」という否定神学的な根拠づけが生じると、
外部の反対派が行っていたような逆説的批判に肉薄する形で、自らがアイロニー化し、逆説的な状況そのものと化す。

しかし、実際の作品は、臨界点への到達を迂回するという形をとってうやむやに済ましており、現代ではその迂回ごと方法化されている。
たとえば、ステンレスでバルーンアートの犬をこさえる、ジェフクーンズという彫刻作家などの、キッチュという概念がそれにあたるだろう。
作品をただの材料ではなくするので、原価をはるかに越えることが可能となる。

では、さらなるコンセプトを必要とする、後進の現代アートはどうかと言えば、
それは、「表現は現実ではない」という、自らに課せられた概念の自己更新運動の逆説的な帰結を迂回することで現代アート自体を延命させることとなる。

このように、表現は現実ではないという
帰結を迂回するために、
食い込める現実を探すようになる。

この作品は建築家によるもので、一時期もてはやされた考えさせるデザインなど、ファインアート以外のジャンル出身者がアートの表現を買って出るのは、
工学的分野の芸術の方がより直接的に現実に奉仕しているからで、それらのジャンルが本来設計によって奉仕している範囲をずらすと、
自らの役目を詩的感情へずらしながら現実に介入することになり、作品は、叙事詩のための事となり、
覇権的に語られるヒューマニティーの胴元らしく、近代的理性の発現装置として表出可能となる。

では、一部重複する形で、元から形而上学的な、いわゆるファインアート系はどうなるか。
この場合、作品の方向性は、物理的な現象の強調と人間を結ぶような、存在論の実体化の範疇で活躍してまわることとなる。
ここで強調される物理的な現象は、作品化を介して、通常のデザイナーや建築家が行う設計の手前に位置している物理の別系譜として表出する。
それ自体が物理の詩的存在となることで一種の光景となり、観客の認識を通過することで、叙景となるのだ。

現実への顕現を共有した軸にして、建築家やデザイナーのそれとはほぼ対の構造をとっている。
そうすることで、アートは自身の帰結を迂回でき、
自らを物理学の再発見と決して呼ばない物理学の再発見が、アート作品によってアート自身を延命させる材料の一つとなる。

露骨な力学の再発明では、実験ショーになるので、でんじろう先生になってしまい、トラス構造をトラス構造として紹介してしまったらいずれ物理や力学の再発明か、学術系YouTuber、物理法則を使ったリラクゼーションオブジェに至るので、
21世紀のアートは、そこをなんらかの知的営為に仕上げる努力が求められるのである。

はっきり言えば、日本の芸大教授陣は、これらの問題を解消する側おらず、
インサイダーのようでアウトサイダーに過ぎない。
なので、不可解な印象批評は、作品の雰囲気が説得力を称えているか否かのいわば"作品らしさ"の程度問題に過ぎず、
教授があまりに、感覚派を越えて体質的な好き嫌いの人ならば、無視しても差し支えない。
ここに書いたことを念頭に、しかし黙って、別の前向きな言葉に言い換えた作品が、
適せん、アートでやれることはなくなってません。と、近代的理性の普遍性を裏から補強できれば良いのであり、それを踏まえて、まずは心穏やかに過ごして欲しい。

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