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死に触れる

 出逢った大切な人達が、突然に死んでいく。

 僕が初めて死に触れたのは小学生の時だった。亡くなったのは実の父親で、死因は胃がんだった。
父は僕が幼稚園の頃に母と離婚している。だから、思い出は少ない。思い出が少ないなら悲しみも少ないはずだった。

亡くなる少し前に父と一緒に暮らせた期間があって、それはたった二ヶ月間のこと。それなのに、父の死体を見た時に僕の頭のなかはたくさんの父を映し出した。父からもらった優しさや、小さな言葉が、小学生の自分の足の先から頭の上まで埋め尽くすのだ。

寂しかった。そして、後悔をした。

 一般的に、離婚した夫婦がまた一緒に暮らしていくことなんて少ないだろう。おそらく、すでに父は余命宣告を受けていたのだと思う。どんな気持ちで、あの日の父は自分と一緒に暮らしていたのだろう。

そして、なぜひとりで亡くなることを選んだのだろうか。

また一緒に暮らせる方法があったのかもしれない。もしかしたら、父の死の瞬間、そばにいることができた選択肢があったのかもしれない。

人の死は、いつだって後悔と一緒にやってくる。


 僕は大人になってから、福祉の道に進むことになった。病院で看護助手として勤め、介護福祉士を取得した。仕事を選ぶうえで、「父にできなかった親孝行をしたい」という気持ちも少なからずあったのだ。そしてたくさんの患者、高齢者と出会い、そして別れてきた。

何人、何十人と人の死を見つめ、関わっていく。その心に寄り添い、QOL(クオリティオブライフ・生活や人生の質)の維持、向上を考えなければいけない。

その人に出会う前に、すでに情報として「その人が死ぬ目安の期間」を伝えられることだってあった。人生がドラマのようなものだとするならば、最終回で初めてその人と関わることになる。慎重にしなければならない仕事だ。
関わる人が死ぬこと。それはいくら回数をこなしても、いくら経験をしても慣れることはなかった。QOD(クオリティオブデス・質の高い死)について考えることも多くなる。学び、様々な本を読み、質が高いケアを行ったとしても、空になったベッドを見た時にどうしようもない喪失感が生まれるのは変わらなかった。

「じきに慣れるわよ」そんな先輩のアドバイスも、参考にならない。

 死は、後悔を引き連れながら突然やってくるのだ。それだけが事実だった。

「あの時、ああしていれば……」
「なにか、できたことがあったのでは……」

その後悔が自分をひたすら勉強に追い込んだ。資格を取得することや研修を受けることに躍起になっていたようにも思う。そうすれば……いずれ、死の後悔を減らせる気がしていた。

そんななか、僕はまた大きな死と後悔に触れることになった。

 友人が、首を吊って自殺した。

その友人は高校の時の同級生で、同じグループにいた男子だった。高校を卒業してから十年近くも連絡を取っていなかった。「疎遠になっているなら後悔する必要もないじゃないか」と思われるかもしれない。
自分達のグループは人数が多いグループだったのだが、くだらないことが原因でグループがふたつに分かれてしまったのだ。もう細かい理由も思い出せない。誰かが狙っていた女子に誰かが告白した……そんなものだ。僕はそのとき、流されるようにただグループが分かれていくところを見ていて、何もしていなかった。

自殺した友人の最期に見た姿は、気まずそうにしている顔だ。

 共通の友人から詳細の連絡が来た。「仲が良かった人に伝えてほしい」という故人の思いがあったそうだ。就職や結婚、その全てが良い方向に運ばず、相談もできず、思い悩んだうえで自殺を選んだらしい。

 激しい後悔が襲う。あの時の選択肢で、僕がもし違う行動をしていたらこの未来は変わっていたのかもしれない。これがもしゲームの世界なら、選択を正すために時を戻すことができた。だけど、これは現実で人は死んだら二度と生き返らない。


想像以上に、世の中には死が溢れている。

人と出会えばその分だけ別れがある。何気なく毎日を過ごす一方で、いつこの毎日が終わってもおかしくないのだ。


思い悩んでいた時に、コロナ禍は始まった。人と人との交流は少なくなり、人間関係が希薄になっていく。亡くなった友人と同じように自殺する人が増えていくんじゃないだろうか……とぞわりとした嫌な感覚があった。

 そんな時、親しい友人からメッセージが届いた。

「コロナ流行っているけど、大丈夫?」

 なんてことないメッセージ。その時、ふっと感じたのだ。何気ない声かけがこんなにも嬉しいことを。
そして、この感情は自分だって人に渡すことができるはずなのだ。今までも、きっとそうやって渡してきている。

 人は人の死を恐れる。後悔する。だけど、死ぬことでそれまでの全てがダメになるわけではないと気づいた。僕が渡した感情がたしかにあるはずなのだ。僕は僕を許すことで、人をまた許せる、優しくなれるような気がした。

コロナ禍で希薄になる人間関係というけれど、人の繋がりが消えるわけではない。

例えば知り合いの誕生日やちょっとした機会には、一言メッセージを送る。

「誕生日おめでとう」
「最近どう? 無理してない?」

たったそれだけのことで、突然訪れる死を防ぐことができるかもしれない。
もちろん、全ての人を救うことはできない。だけど、自分の手の届く範囲だけでも、その気持ちを広げたい。そして、そんな気持ちを……たくさんの人が持つことができたらいいなと考えた。そう思って今日はこのエッセイを書いている。

これは、僕ひとりじゃ気づけなかったことだ。
通り過ぎていった死と、その人達が教えてくれた。

今も、あの人たちの優しさが、この胸に生きている。

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