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死んだ恋人に会いにいく 最終話
エピローグ
私たちは会いにいく
床に硬いものが落ちる音で目が覚める。
どうやらソファーで居眠りをしてしまっていたようだった。
今朝はいつもの休日より一時間も早起きしたというのに、こんなことならベッドで休んでいたほうがどれほど有意義だったことか。
床から拾い上げたスマホの画面に目をやると、ちょうど出発を予定していた時間になったところだった。
盆休みの初日にあたる今日は、高速道路では大混雑の発生が予想されている。
急ぐ旅ではないにせよ、のんびりしていれば渋滞のピークの只中に飛び込む羽目になってしまう。
二泊分の荷物が詰まったキャリーバッグを車に積み込み、運転席に着座するとナビでルートを設定――しない。
もう何十回と通った道なのだから、いまさら迷子になるということはあり得ない。
ならば画面に赤く映される混雑状況を敢えて眺める必要もあるまい。
最初の目的地に到着したのは、予定していたより一時間も後のことだった。
もっともツアープランナーを生業とする私にしてみれば、このくらいの遅延は当初より織り込み済みである。
「ママ、リュックお願い。僕はベビーカー下ろすから」
「あ、パパ。悠くん自分で歩きたいって」
「えー? この前もそう言ってすぐに電池切れ起こしてたし」
夏休みの動物園は案の定の激混みであったが、妻と息子が楽しみにしていたペンギンの餌やりは最前列で観ることができた。
私が観たかったライオンはといえば、日陰で尻をこちらに向けて横たわったまま、ついにはピクリとも動いてくれなかった。
お気に入りのタオルケットを抱きしめたままで、遥か夢の世界へと旅立って久しい我が子をチャイルドシートに括り付けると、次の目的地である私の実家へと向けて車を発進させる。
ちなみに現時点で二時間押しだったが、それでも昨年よりはいくらか順調な滑り出しではあった。
人はこうして失敗から学び、着実に成長を遂げてゆくのだろう。
「かなたさん、アメっていりますか?」
「あ、うん。貰うよ」
息子が熟睡したことを見届けた彼女は、赤信号で車が止まったタイミングで助手席に戻ってくると、包みから出した飴玉を私の口の中に放り込んでくれた。
子が生まれてから、いつの間にか互いにパパ・ママと呼ぶようになっていたのだが、今のようなふたりだけの時間は昔と同じように名前で呼び合い、彼女に至ってはやはり当時のように私に対して敬語を使用していた。
私にはそれがとても心地よかったし、どうやら彼女も同じようだった。
「お義父さんとお義母さんから催促のメッセージきてましたよ」
「到着は夜になるって、家を出る前に伝えておいたんだけどね。あの二人にお義母さんの爪の垢を煎じて飲ませてやりたいよ」
「うちのお母さんからも着信が三回入ってました」
「あ……そう」
毎日のようにビデオ通話で顔を見せているのだから、何もそんなにがっつくこともないだろうに。
と、そう思う反面、いずれの親にとっても悠は初孫なのだから、それもまあ仕方がないことなのかもしれない。
明日は義母に孫を会わせてから、私の生みの両親と義理の姉となった水守さんが眠る墓に参ったあと、さらに夜には高校の同窓会が予定されていた。
連休とはいえハードスケジュールである。
ゆうべ遅くに掛かってきた藤田からの電話によれば、七菜と芝川さん――もとい、長谷川咲希さんも出席するそうだ。
というか彼は、そのことを知らせるために私に電話をしたと言っていた。
曰く、『七菜ちゃんと委員長が絶対に来いって言ってたぞ。ふたりともお前と水守んちの妹さんとの馴れ初めが聞きたいんだとよ』だ、そうだ。
「……ふう」
「かなたさん? 顔色がよくないみたいですけど……」
「あ、ごめん。なんでもないよ」
事細かに話せるような問題ではない以上、黙して語らずが正解に思えた。
「明後日はそのままうちに帰ったほうがよさそうですか?」
「大丈夫だよ。予定通り川島さんのところに寄ってから帰ろうよ。彩ちゃんに中学の入学祝いも渡さないといけないし」
心底心配といったふうにこちらを伺う彼女に、多少の罪悪感を抱きながらそう答えると、まるで参観会の優等生のような「はい!」という元気な返事が返ってきた。
「ちょっとママ、悠が起きちゃうって」
「あ、ごめんなさい……」
ようやく大渋滞の高速道路を抜けた頃には、西の空に僅かに残っていた黄昏が濃紺の闇に塗りつぶされていた。
薄暗い県道をヘッドライトの明かりを頼りに、互いの故郷に向けて車を軽快に走らせる。
独身だった時代にあっても、あの町へと帰るために何十回と通ったこの道路だったが、フロントガラスの向こうに映る景色は、そのどの時よりもずっと彩り豊かに見えた。
それは間違いなく私の横にいる彼女と後席で寝息を立てている彼の、ふたりの仕業であろう。
進行方向左手に車一台分の駐車スペースと、そのすぐ傍らに二台の自動販売機が見えてきた。
休憩と後席の様子見を兼ね、暗闇の只中で唯一光を放つその空間へと車を滑り込ませる。
「ちょっと休憩しよっか。茉千華は何か飲む?」
「あ、いえ。……あの、かなたさん」
「ん? どうしたの?」
彼女が何かを訴え、私がその理由を訊ねる。
私たちはずっと昔からこのやり取りを繰り返していた。
「かなたさんは私と一緒になってよかったって、そう思っていますか?」
何をいまさらと一瞬そう思ってしまったが、すぐにその問いに隠された意図に気づくことができた。
そうとなれば恥ずかしいなどとは言わずに、私としても少々腹をくくらねばなるまい。
「もちろんだよ。茉千華、君のことを愛してる。それはこれまでもだし、これからもずっとだよ」
その言葉に一切の嘘偽りはなかった。
きっと私は彼女と出会うために、こうして生かされてきたのだから。
「私も同じです。おねえちゃんの妹に生まれてきて、それでかなたさんに会えて。私、本当に幸せす」
『死んだ恋人に会いにいく』
かつて私の同級生だった水守唯は、この一行詩のような言葉と深い悲しみだけを遺し、ひとり此岸から彼岸へと旅立っていった。
彼女の家族が負った心の傷が完全に癒えることなどは、もはや一生涯ないのかもしれない。
しかし、彼女がこの世界に遺したものが、本当にたったそれだけだったかといえば、まったく以てそんなわけなどあるはずがなかった。
「かなたさん。私、もうひとり赤ちゃんがほしいです。かなたさんみたいに優しくて、それにお姉ちゃんみたいに素敵な女の子がいいです」
そう言った彼女の瞳は、まるでクリスマスプレゼントに玩具をねだる子供のように煌めき瞬いていた。
「実は僕も同じことを考えてたんだ。君たち姉妹みたいに強くて素敵な女の子が欲しいなって」
母親似の美少女だったら尚さらいい。
「じゃあ、今夜は悠くんのこと、お義父さんとお義母さんにお願いしちゃいませんか?」
「……そうしちゃおっか?」
「はい!」
次第に遠ざかってゆく自動販売機の灯りに別れを告げると、満天に煌めく星々を道標に車を走らせる。
そして、私たちは会いにいく。
あの懐かしい町と、そこで暮らす愛しい人たちに。
終
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