死んだ恋人に会いにいく　第４９話

未来

　水守家には門限というものがないそうだ。
　それはひとえに模範的な少女時代を送った長女の功績だという。
　その妹も余程のことがない限り、日没までに家の戸をくぐることを自らの決め事として守っていたというのだから、揃いも揃って殊勝な姉妹だとしか言いようがない。
　ただ本日に限っては、すでに日の入りから数十分が経過していた。
　顔の横からスマホを離してこちらを向いた彼女は、「またお母さんにウソついちゃいました」と言い、桃色の小さな舌をペロッと出してみせた。
「私はいま隣町のカラオケ屋さんを出たところで、お友だちのお母さんに送ってもらって、あと三十分くらいで家に着くことになりました」
　もしも将来、自分の娘が同じようなことを言い出したのなら、とりあえずその場でその友達に電話に出てもらうことにしよう。
　と、今はそんな不確定な未来のことよりも、その設定上の友達のお母さんに代わり、急いで彼女を家まで送り届けなければ。

　もともと夜ともなれば車通りのほとんどない県道だったが、大晦日の今日は普段にもましてそれが顕著だった。
　ところどころにある白色ＬＥＤの道路照明灯が照らすのは、黒くて冷たいアスファルトの路面ばかりだ。
　こんなことなら多少イニシャルコストを掛けてでも、センサー式のライトにでもしたほうが余程経済的エコノミーなのではなかろうか？
　そんな暗闇の中を走っている時に、助手席から突然「あの！」と大きな声があがったものだから、カモシカかイノシシでも飛び出してきたのかと、慌てて急ブレーキを踏みつけてしまった。
　アンチロックブレーキシステムを作動させ車を急停止させた私は、道路上に横たわる毛皮がないことを確認してから大きく息を吐く。
「……事故るかと思った」
「あ、ごめんなさい」
　彼女はリュックサックからガサガサと紙袋を取り出す。
「これも預かってもらっていいですか？」
　それは先ほどにも一度提出された物で、確認したわけではないが中身の想像はついていた。
「いいよ」
　恭しい手付きで渡されたその袋を後部座席に置くと、シフトノブをＤに入れ直して車を発進させる。
「それと……さっきはすいませんでした」
「ん？」
「子どもなのにわかったような口を利いてしまって。本当にごめんなさい」
　本来謝らねばならないのは、少女の並々ならぬ覚悟を大人の狡猾さで説き伏せ抑えつけた私のほうだったのだが、いまさらそれを蒸し返すようなことはしたくない。
　ただひとつだけ、彼女には伝えておかなければいけないことがあった。
「さっき茉千華ちゃんが言ったとおり、確かに僕たちが出会ったのはお姉さんに不幸があったからだったけどさ」
　それを否定することなどは、どんなに巧みな詭弁を用いてもできやしない。
「でも、もし仮にそんなことがなかったとしても」
『もし』とか『仮に』なんて、私が一番嫌っていた言葉だったはずなのに。
「それでもきっと、僕は君とどこかで出会って、それで恋に落ちていたはずだよ」
　そう断言できるほどに、私は水守茉千華という少女のことを特別に感じていた。
「なんだか……プロポーズの言葉みたいです」
「その時はもっとこう、ビシッとしたセリフを用意しておくよ」
　私としてはほんの冗談で言ったつもりだったのだが、彼女は仄暗い車内にあってもはっきりとわかるほどに頬を赤く染めると、真顔でこう返してきたのだった。
「不束者ですがよろしくお願いします」
「……だから事故るって」

　ヘッドライトのオートハイビーム機能に一度も仕事をさせることなく、まんまと彼女の家のすぐ近くまで戻ってくることができた。
「ありがとうございました」
　シートベルトを外してからこちらを向いた彼女の頬にそっと手を当てる。
　一瞬だけ驚きの表情を浮かべた彼女だったが、すぐに笑顔を見せると自身の手のひらを私の手の上に重ねた。
　何時間でもそうしていたいくらいだったが、それでは大人としての立つ瀬がなくなってしまう。
「それじゃ、また」
　自分で口にしておいてあれだが、その『また』とは一体いつのことを言ったのだろう。
　仕事初めは四日からなので、三日の昼頃まではこちらに滞在しようと考えていた。
　だが水守さんの件が終息した今となっては、彼女と会うためにどんな理由を設ければ――いや。
　もはや私と彼女には、会うための理由など必要ないのだった。
「茉千華ちゃん。明後日なんだけど動物園に行こうって言ったら付き合ってくれる？　ここからだと少しだけ遠いんだけどさ」
「すごく行きたいです！」
　私にとってその遠さというのは、物理的なそれよりも精神的な意味合いが強かった。
　そこはかつて、幼かった私が両親に連れられて訪れた場所であり、もう二度と行くつもりなどあろうはずもなかった場所でもある。
　彼女が最愛の姉の死を受け入れたように、私もそろそろ天国にいる父と母に安心してもらいたいという、そんな気持ちが芽生えたのかもしれない。
　悪夢の記念碑のようなその場所も彼女が一緒であれば、きっと幸せな思い出でその碑文を上書きすることができるはずだ。

　大きく手を振りながら小さくなっていく彼女の姿を見送っていると、自然と小さなため息が漏れ、それと同時に大きな充実感で胸が満たされる。
　急いで帰ったところで誰かが待っているわけでもなければ、何かやりたいことがあるわけでもない。
　だったらこの、私のことを呪っているとまで思っていた町の夜を、もう少しの間だけ楽しんでやろう。
　そう決定を下すとラジオのボリュームを少しだけ上げ、県道を遠回りしながら家に帰ることにした。

　アクセルペダルの上に置いた右足首に軽く力を込めると、モーターで駆動されたハイブリッドカーの前輪がアスファルトを力強くグリップする。
　液晶画面の速度計は、まるで素数でも数えるように飛ばし飛ばしの数字を表示し、もう数キロほどで道路標識で指定される最高速度になろうかといったところで、モーターはその役目を内燃機関へ受け渡そうと、インバーターから発せられていた高周波の音が途切れる。
　と、その時だった。
　わずかに開けていた運転席の窓からとても懐かしく、それでいてよく聞き慣れた声が耳に届く。
　それはきっとこの一年半の間に起こった様々な出来事の、その終わりを告げているのではないだろうか。
　なぜなのかはわからないが、私には不思議とそう思えた。
　それに対して私は、幼少の頃にも照れながら口にしたことのある短い言葉で返す。
「どういたしまして……水守さん」

　君という同級生の女の子がいたことを、私は決して忘れなどしない。
　だからどうか、永遠に安らかでいてほしい。
　愛する恋人とともに、終わることのない時のなかで。

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