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海の青より、空の青 第6話

午後の海

 三時を少し回った頃になって自然と目が覚めた。
 慣れない畳の上で寝たせいか腕がジンジンとしびれており、起き上がってその部分を触ってみると、まるで畑のうねのような畳の跡がはっきりと残っていた。

 家の中に見当たらなかった祖母を求め玄関から表に出ると、庭先でうちの母と同年代の女性と立ち話をしている姿を見つけた。
景子けいこの息子の夏生だよ」
 祖母が俺のことをそう紹介したことから、女性が母の知り合いだということがわかった。
「あら! 夏生ちゃん? 随分と大きくなったねえ!」
 親の知り合いに会うとほぼ必ず言われるこの定型文が、俺は少しだけ苦手だった。
 なので申し訳ないのだが、こんな時は毎回「どうも」とだけ返してお茶を濁すようにしていた。
「お母さんは先に帰られたの?」
「はい。昨日僕を送り届けたあとにあっちに戻りました」
 彼女は「遠いのに大変ねえ」と言いながら、見えない何かを仰ぐように手をパタパタと振る。
 そこはかとない居心地の悪さが限界に達する前に「ちょっと散歩をしてくる」と祖母に告げ、女性に一礼をし掘割の道路の方へと歩き出す。
 行き先は昨日も行ったあの海だ。

 前回よりも少しだけ早い時間だからだろうか。
 幾らか強い日差しが地面を焦がし、赤土の畑の間を走る道路には陽炎が揺らいでいる。
 小さな頃の俺は近づくと逃げて行くそれを何とか捕らえようとして、炎天下を全力で追い掛けたものだった。
 試しに少しだけ歩速を上げてユラユラと景色を歪める陽炎に近づいてみるも、俺が進んだ分だけそれも遠のいてしまう。

 若干ではあるが土地勘を取り戻していたためか、昨日よりも少ない歩数と時間で矢竹の壁へと辿り着くことができた。
 藪の中の小さなトンネルを潜り砂浜に出ると、まだ高い位置にある太陽の光を反射した海が目の前に広がる。
 砂浜には相変わらず人影はなく、世界から自分以外の人間が消えてしまったかのような錯覚に陥る。
 足跡ひとつない白い砂の上には見渡す限りに砂紋が描かれており、それはまるで前衛的なアート作品のようにも見えた。

 子供の頃にしていたように、珍しい形の貝殻や流木を探しながら熱く灼けた砂の上を歩いていると、いつの間にか波打ち際まで歩を進めていた。
 崩れて泡立った波が砂浜を撫でる時に発するシュンシュンという小気味良い音が、すぐ目の前の砂の上から聞こえてくる。 
「……少しだけ入ってみようかな」
 誰に聞かれているでもないのに敢えて声に出していうと、履物サンダルを脱ぎ捨ててつま先立ちをしながら、砂の色が黒く濃くなった場所に立ってみる。
 正面から少し恐いくらいの勢いで迫ってきた波は、ハーフパンツの裾のすぐ下までを濡らして帰っていく。
 波が引く時にもって行かれる砂によって、足の裏がこちょこちょとくすぐられるような感触が懐かしい。
 こうして波と戯れていると、今にもすぐ後ろから祖父の『危ないでそのくらいにしとけよ』という声が聞こえてきそうで、思わず振り返ってみる。
 そこには人の背丈よりも大きな流木が一本横たわっているだけで、祖父の姿どころか人の気配そのものがなかった。
 
 結局ひとりで十分も波打ち際で遊んでいた。
 幼い頃から親が共働きだったので一人遊びは得意だったのだが、それにしても今日は羽目を外し過ぎてしまったように思う。
 なぜなら俺は今、下半身どころか頭の天辺までずぶ濡れにして、アホ面で誰もいない砂浜に立ち尽くしているのだから。

 最初は波に足を濡らせて満足していたのだが、波遊びは次第にエスカレートしていった。
 ついには波が大きく引いた隙きを見計らうと、海に向かって猛ダッシュをかましたのだった。
 勿論、再び波が打ち寄せる前に砂浜へと戻る算段ではあったのだが、折り返す時に砂に足を取られて転倒したところに、本日一番の大波が押し寄せてきた。
 俺は敢え無く海に翻弄されると大洋を漂う流木の如く砂浜へと打ち上げられ、そして今に至っている。
 濡れて困るようなものを持っていなかったことだけが幸いであった。
 流石にこのまま帰っては、祖母にまた要らぬ心配を掛けてしまうだろう。
 砂浜に手足を大の字に広げて寝転ぶ。
 夏の強い日差しと海から吹いてくる風が、雨の日の午後の捨て犬のように哀れな姿になった俺を少々荒々しく乾かしてくれる。
 目を閉じると波の音と太陽の熱、そして体の下の砂の感触だけが感じられた。

 十五分もそうしていると、衣服の保水率と反比例するかのように眠気が襲ってきた。
(このまま昼寝をしたら気持ちいいだろうなぁ)
 後ろ髪を引かれる思いはあったが、いま瞼を開けなければ昨日と同じてつを踏むことになるのは間違いない。
 それにいくら十代の若さといえども、日焼け対策もなしでする長時間の日光浴は毒でしかない。
 俺には昔から、嫌なことをしなければならない時にやる癖があった。
 例えば寒い日の朝に布団から出る時などに、十から数え始めてゼロになったと同時に気合を入れて実行に移すという、誰もがやっているであろうアレだ。

 ジュウ、キュウ、ハチ、ナナ……

 我ながら子供じみたことをしているなと思いながらも、砂浜に寝転びながらのカウントダウンは少し楽しかった。
 それに、別に誰かに見聞きされているというわけでもないのだし。

 ロク、ゴ、ヨン、サン……

 雲で太陽が陰ったのだろうか?
 瞼の裏側をペールオレンジに染めていた陽の光が、ほんの少しだけ弱まった気がした。

 ニ、イチ……ゼロ!
 
 カウントがゼロになった瞬間、若干の覚悟を決めると目を一気に開いた。
 次の瞬間、ここぞとばかりに勢いよく飛び込んできた光によって世界のすべてが真っ白に染まる。
 眩しさに徐々に慣れた網膜がまず最初に認識したのは、抜けるような空の青色だった。
 そして、それにほんの一瞬だけ遅れて髪の黒色、それに肌の薄橙色が目に飛び込んでくる。

「あの……大丈夫ですか?」

 砂の上に寝転がる俺と空の群青との間に、麦わら帽子を被った少女の姿があった。
 逆光で影になっていたその顔を見ようとして目を細める。
 その行為が睨んでいるようにでも見えてしまったのかもしれない。
「あ、ごめんなさい! あの、びしょ濡れで倒れていたから……」
 少女はそう言って二歩ほど後ろに下がると、浅葱色のワンピースの前で軽く手を重ねて小さくこうべを垂れた。
 本来ならば弁明をするか会釈でも返すべきだったのだが、俺の目は少女に釘付けになったままだった。
 まばたきもしないで自分のことをに見る若い男の様子に、少女はいよいよ申し訳無さそうな顔をすると「あの、本当にごめんなさい」と弱々しく言い、ついには俯いてしまう。
 違う。
 俺は君のことを睨みつけていただけではない。
 それは君もわかっているはずだろう?
志帆しほちゃん……?」
 喉の奥から絞り出したしゃがれ声を聞いた少女は、驚いた顔をすると白い手を自らの口元に当てた。
 そして、よく磨かれた黒曜石のような大きな瞳で、俺の顔をじっと見つめ返してくる。
「俺……ほら、杉浦の」
 す、ぎ、う、ら……と、少女の薄い唇がゆっくりと動き、一瞬してから小さな口を大きく開いた。
「もしかして……夏生さん、ですか?」


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