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死んだ恋人に会いにいく 第7話

少女

 薄く開けた視線の先の飴色の天井板のおかげで、自分が今どこにいるのかを思い出すための余計な時間と労力を省くことができた。
 寝巻き代わりのTシャツとジャージ姿のままで母屋へと向かう。
 相変わらず開け放たれたままの玄関の向こう側では、まだ早朝といってもいいような時間にもかかわらず、よそ行きの服を着た父と母がドタバタと歩き回っている姿が見えた。
「あ、おはよう叶多。それじゃあ、お母さんたち行ってくるからね」
 玄関の前で首を傾げる私の姿を見つけた母が、そんなようなよくわからないことを口走る。
「行ってくるって?」
「あれ、電話で言わなかったっけ? どうせ今年もあんたは帰ってこないものだとばっかり思ってたから、お父さんと旅行に行くつもりでいたのよ」
「間違いなく聞いてなかったけど。旅行っていつまで?」
「二泊三日で十六日の夕方には戻ってくるから。もし用事があるなら帰ってもいいけど、明日の午後にくる宅配便だけは受け取っておいてね」
 会社は十六日まで休みなので、それまで滞在することは不可能ではないとはいえ、私もせっかくの盆休みを実家での留守番に捧げるつもりなど毛頭なかった。
「じゃあ、その荷物とやらを受け取るまではいるよ」
 それとて不本意ではあったが、昨夜のように母からの責め苦を再び受けずに済むのであれば、その程度の務めであれば甘んじて受けよう。

 土煙を上げて走り去るタクシーを見送ったあと、きのう唯一やり残していたタスクを消化するため、壁のコンセントとスマホをケーブルで繋ぐ。
 たった五秒で作業を終えると、本日の予定は墓参りを残すだけになってしまった。
 それをするとて時間が些か早い気がし、完全にやることのなくなった私は仕方なしに居間のテレビの前に腰を下ろした。
 時間帯が悪かったのか、それとも曜日が悪かったのか。
 都会よりも少ないチャンネルの半分は、くだらな――私には不要な商品を売る通販番組で、残りの半分は見知らぬ顔の人間たちが馴れ合った空気でやり取りをする地方ローカル番組が放映されていた。
 リモコンの電源ボタンをそっと押すと、まだ青みが残る畳の上に大の字に寝転がって目を閉じる。
 鼻孔をくすぐるイグサのいい匂いが、最初からこうするのが正解だったことを存分に思い知らせてくれた。

 それから三時間して再起動した私は礼服に着替えると、予定にあった墓参りには向かわずに、予定になかった目的地に向けて車のステアリングを握っていた。
 大型連休の昼前にして車通りのほとんどない県道を、ほんの十数時間前に立ち去ったばかりの学校へ向けアクセルを踏む。
 その目的はといえば、やはり昨日の夜に行ったばかりの水守家へと赴くためだった。
 昨夜、水守家を去る間際のことだった。
『明日の正午ちょうどに出棺なので、もしよかったら見送りにきてやってください』
 彼女の母親にそう言われた私たちは、その時は軽く目を伏せただけだった。
 そのことについては学校へ戻るまでの道中に皆で話し合ったのだが、翌日の都合であったり諸々の事情で参列を表明する者はいなかった。
 私とてそれは同じだったが、不本意ながら今日こうして何の予定もなくこの町に留まっているのならばと、急に思い立ってのことであった。

 学校に到着すると、まずは車をとめる許可を取るため、玄関脇にある事務室へと足を向ける。
 盆休みの只中だったこともあり、残念ながらそこに人の姿を見つけることはできなかった。
 ならばと向かったのは近くにあるグラウンドだった。
 そこは運動部の練習場になっており、運が良ければ教師の一人や二人くらいなら捕まえることができるかもしれない。

 校庭に着くとすぐに見知った教師の姿を見つけることができた。
「先生、ご無沙汰してます」
「――中原? 中原叶多か! やあ、久しぶりだなあ!」
 彼もまた、すぐに私を認識してくれたようで、まるで旧友に対するような柔らかな口調と表情で出迎えてくれた。
「それにしてもまた、ずいぶんと立派になって」
「はあ。あの頃に比べればまあ、多少は」
「高校三年の時だったか? 君が大学に行きたいって俺に相談してきたのは。あの時は先生、正直言ってどうなることかと思っていたんだよ」
「その節は大変世話になりました」
「いや、まったくその通りだけどな。でも、こうして更生した君が訪ねてきてくれるとは」
 私はどうやら彼に、不良生徒か何かだと思われていたらしい。
 確かにバンド活動の一環として、今にして思えばみっともない髪色や格好はしていたが、学校にはちゃんと毎日通っていたし、成績だって悪い方ではなかったはずだ。
「今は何してるんだ? あっちで就職したのか? 音楽はまだ続けとるのか?」
 そういえば、この先生は我が校では校長に次いで長話が好きな類の人間だった。
 彼の話にまともに付き合っていては、出棺の時間の間に合わないどころか、火葬を終えた彼女が家に戻って来るほうが早くなってしまいかねない。
 人の話をバッサリと断ち切って本題に戻すスキルは、バックパッカーをしていた大学時代に身につけていた。
 というのも、パッカーという生き物は国籍や人種や老若男女を問わず、皆おしゃべりと酒が大好きだったからだ。
 そのせいで旅の予定が大幅に遅れた私は、人よりも大学に一年ばかり余分に通うことになったのだった。
 当時支払った先行投資がようやく生きる場面が、まさに今この時なのかもしれない。

「そういうわけで、車を置かせてもらいたくて」
 極めて簡潔に経緯を説明したのだったが、どうやら元教え子に不幸があったことは彼の耳にも届いていたようであった。
「そうか、うん。いくらでも駐めておいてくれて構わないよ」
 私はてっきり、『そういうことなら先生も一緒に』という流れにでもなるものだとばかり思っていたのだが、よくよく考えたら今の彼は職務の最中なのであった。
 先生に礼を言い再び校門まで戻ると、ゆうべ辿った道を思い出しながら十何軒かの民家の軒をすり抜け、八月の長閑な田園地帯を経て、やがて昼にしてなお薄暗い山道へと至った。
 それにしても時間帯が違うだけで、これほどにも印象が違うものだろうか。
 超自然現象的な存在を一寸たりとも信じぬ私をして、日没後の昨日に訪れた時には、とてもではないが一人で来る気にはなれなかったこの場所だったが、真夏の午前中の今ともなれば、どこにでもある里山のひとつにすぎなかった。
 鬱蒼と茂る杉の葉のせいで相変わらず仄暗くはあったが、そのおかげでワイシャツの背にかいていた汗がゆっくりと引いていく。

 半日ぶりにやってきた水守家はすでに霊柩車が乗り入れられており、敷地のすぐ外には私と目的を同じくする十数人からの人集りがあった。
 その服装や年齢層から類推するに、おそらくは近隣の住人なのだろう。
 自身もその集団の近くに居場所を求めようと距離を詰める。
 そうすると否が応でも、彼ら彼女らが声を潜めて話す内容が耳に届いてしまう。
 五十代と思しき主婦が口元に手を当て、隣にいた同年代の女性に耳打ちをした。
「睡眠薬かなにかでって、どうもそういうことらしいわよ」
「じゃあ、前々から準備をしていたのかしら?」
「さあ? でも遺書もあったってきいたから、そうなのかもしれないわね」
 それが純粋な悪口でないことはくらいは私にもわかる。
 ただそうだとしても、自分たちが今ここに何のために来ているのかを顧みることもできないのか。
 くだらない。
 本当にくだらない。
 こんな気持ちのままで故人を見送るのはあまりにも忍びなかった。
 憤りを静めるために門前の集団から少し距離をとり、山頂の方向から柔らかに吹いてくる夏の風に身を晒しながら目を閉じる。

 二分か三分か、多分そのくらいそうしていた。
 ようやく心の水位が落ち着きを見せ始めた頃になり、水守家のほうから掛け声ともとれるような複数の人の声が聞こえてくる。
 慌ててまぶたを開けると、まさにちょうど彼女が収められた棺が親族の人たちの手により、白色のミニバンに運び込まれようとしている最中だった。
 霊柩車といえば黒いワゴンという先入観があったのだが、どうやら最近はそうとも限らないらしい。
 礼服に白い手袋を着用した葬儀社の男性が、恭しい所作でミニバンのリヤゲートを閉める。
 喪主の徴を着けた母親が見送りに来ていた人たちに頭を垂れ、我々もそれに応えて顔を伏せた。
 わずかなあいだ地面を眺めてから顔をあげる。
 彼女を載せたミニバンは出棺のホーンすら鳴らすことなく車輪を回転させると、ゆっくりと山道をくだっていく。
 その場に残された人々は、ただ黙って車のテールランプを目で追っていた。

 だが、私に限っては他の参列者とはまったく異なる場所に視線を向けていた。
 それがどこかといえば、霊柩車という仕切りが取り払われた水守家の庭であった。
 では、なぜそんなところを見ていたかといえば、顔を伏せ涙を流す遺族のすぐ後ろに、夏服の白いセーラー服に身を包み、両手の甲で必死に涙を拭っているかつての同級生――水守唯の姿を見つけたからだった。



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