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海の青より、空の青 第45話

枯れ尾花

 それは深夜のことだった。
 俺は突然、目を覚ましたのだった。
 ルームメイトたちはすでに寝静まっている。
 唐突な覚醒が尿意によってもたらされたものだと気付き、羽化前のセミがそうするようにモゾモゾと布団から這い出ると、明かりもつけずにそっと部屋を出た。

 トイレはバンガローから五〇メートルほど離れた場所にあった。
 美沙に聞いた話では、女子の棟はちゃんと同じ建物の中にトイレがあるそうなので、もしかしたら男女のそれらは建てられた年代に違いがあるのかもしれない。
 建物のすぐ前に青白い水銀灯こそ灯ってはいるが、山中にある屋外トイレは不気味なことこの上ない。
 もういっそのこと、その辺りの木の根元で済ませてしまおうか?
 と思った矢先、隣のクラスのバンガローの方から人が歩いてくる姿が見えた。
 顔に見覚えはあったが名までは知らぬ同級生と連れ立ち用を済ませる。
 即席で形成された妙な連帯感からか互いに「おつかれさん」と声を掛け合い、またそれぞれの寝床へと帰った。

 足元に注意を払いながら自分のベッドに戻り、ふと顔を上げたその正面に木枠の窓が目に入る。
 そういえば今朝、隣部屋の住人である武井が今の俺と全く同じ状況で、窓の外に人影を見たと騒いでいたことを思い出した。
 その時は特段気に掛けてもいなかったのだが、担任のあの話を聞いたせいか、もしかしたらという気持ちがわずかに湧いて出てくる。
 一旦はベッドに突っ込んだ片足を引き抜くと、足音を立てないようにそっと窓辺に近づき、ガラスに張り付きながら外のほうに目をやる。
「……っ」
 果たしてそれは、本当に存在していた。
 俺はふたたび部屋を、そしてバンガローから外へと出た。
 壁伝いに歩いて自室の窓の下までやってくると、そこで窓の中を必死に窺い知ろうとしていたその存在に声を掛ける。
「……何やってんのさ」

 ゆうべ武井のことをあれ程に恐怖させた存在は、いま俺の布団の中でいい感じのポジションを探すのに夢中になっていた。
「一人で寝るのが恐いなら同じ部屋の子に頼んで一緒に寝てもらえばいいのに」
 真っ暗なので彼女からは見えていないだろうが、今の俺はといえばかなりの呆れ顔をしている。
 彼女は例の話を聞いて恐くなったと言っているのだが、だとしたら深夜に外に出て俺の部屋を覗くという行動の方が余程勇気がいるだろうし、そもそも昨夜にも来ていた事実と矛盾が生じる。
 十中八九詭弁だろう。
「美沙。本当のこと言わないと追い出すよ」
「ナツオと一緒に寝たかったの」
 彼女は爆速で白状した。

 結局俺の体にコアラのように抱きつくスタイルで落ち着いた美沙は、「おやすみなさい」と言うやいなや、スヤスヤと寝息を立て始めた。
 すぐ横にある小さな頭からはシャンプーのいい匂いがしており、身体の側面には――慎ましやかではあるが――柔らかなものも感じる。
 さすがの俺をして、この状況で全く何も感じないほどには朴念仁でも益体なしでもなかった。
 それでも、俺と彼女の関係は性別を越えた友人だと信じたかったし、これからもそうありたいとも思っている。
「……美沙はどう思う?」
 その問いには可愛らしい寝息しか返ってこなかったが、別に俺も回答を期待して聞いたわけではない。
 彼女にではなく、自分自身に確認したかっただけだ。
「おやすみ、美沙」
 小さな彼女によってもたらされる大きな安らぎを感じつつ、林間学校二日目の夜は静かに幕を閉じた。

 翌朝。
 俺が目を覚ました時には彼女はすでに消え去っていた。
 窓の外はもう明るかったが、起床時間までにはまだ少し時間があるようだ。
 早朝の山の空気でも吸おうか。
 そんな我ながら『らしくない』企みに突き動かされベッドから抜けると、昨夜に引き続き音を立てないよう注意を払いながらバンガローの外へと出る。
 五月の早朝の山は少し肌寒かったが、それにより空気の清廉さが一層強く感じられた。
 もし将来どこかに移り住むことがあったら田舎にしよう。
 などと、薄っぺらな未来予想図を思い描きながら丸太で出来たベンチに腰掛けていると、朝靄の向こうから眠そうな目をこすり担任教師が出て来るのが見えた。

「お? 夏生おはよう。お前、早いな」
 彼は大きな欠伸をしながら俺の横に腰掛けると「そう言えば」とこちらに顔を向ける。
「昨夜の肝試し、楽しかったか?」
「ええ、おかげさまで」
 可能な限りの皮肉を込めて返答する。
「他の先生に言わないでくれよ。あれ、全部ウソだからさ」
「は?」
「その代わり俺も見なかったことにしてやるから」
「は? 見なかったって、何を?」
「さっきお前んとこのバンガローから出てった――」
「はいもちろん絶対に誰にも言いません約束します神に誓っても」
 即答する。
 するしかなかった。

 朝食で配られた弁当は各々が好きな場所で食べていいということだったので、昨夜はしっかりと挨拶も出来なかった朱音のところへと美沙を引き連れて遠路遥々やってきた。
 三人でレジャーシートの上で仲良く楽しく食事をしたあと、連れ立って管理棟へと向かう。
 これからそこで退所式が執り行なわれるからだ。

 入所式の時と同じように、非常にスピーディーな進行だった。
 最後に所長から、この林間学校の感想のようなものがあればと聞かれ、俺は真っ先に手を挙げた。
 まずはじめに、二泊三日の生活や行事でお世話になったお礼を述べる。
 次に本題である、施設内の移動手段としてマウンテンバイクか何かを用意してはどうか、という提案をした。
 最奥地に陣取っていた五組と六組の生徒たちから大きな拍手が沸き起こり、他のクラスからは小さな笑いが起こった。
「大変建設的なご意見ありがとうございました。その点はこちらとしても熟考したいと思います。それでは皆さん、お疲れさまでした!」

 大きな荷物を抱えて駐車場のバスへと向かう途中、目の前に武井の姿を見つけ「うちのが悪かったね」とだけ言って抜き去る。
 直後に彼から「え? 何が?」という、もっとも過ぎる質問が返されたのだが、説明などできるはずもなく、大変申し訳ないが無視させてもらった。
 帰りのバスの中は水を打ったかのように静まり返っていた。
 言わずもがな、皆疲れ果てているのだろう。
 それは俺も同じだったようで、ふと気がついた時にはもう、窓の外にはよく見知った町並みが流れいた。
 すぐ隣では美沙が俺の肩に顔を乗せ、今朝方と同じく静かに寝息を立てている。
 思い返せば『山の中を走り回っては美沙と一緒に寝る』を繰り返した二泊三日だったような気がしたが、楽しかったかそうでなかったかと聞かれれば間違いなく前者だった。

『高校に入って夏生君が前みたいに戻ったのは、葉山さんのおかげかな?』

 不意に昨日、朱音が口にした言葉を思い出す。
 美沙が目を覚ましたら、先ほど武井にしたように一方的に『ありがとう』とだけ伝えよう。
 彼女はきっと、頭の上にハテナマークを浮かべがなら『どういたしまして』と言ってくれるはずだ。
 そんな想像をしているうちに、遠くに懐かしい学校のシルエットが見えてくる。
 長かったようであっという間だった二泊三日の林間学校は、こうして無事に終了したのだった。

 林間学校の翌月には文化祭が行われた。
 ほんの三ヶ月前に組まれたばかりの我がクラスは一丸となりそれに臨んだ。
 その結果だろうか。
 一学期も終わりを迎えようとするその頃、俺たちはすっかりと結束の取れた集団となっていた。
 それは良くも悪くも『中の中』といった風のうちの学校を選んだ、俺たちの温度感が近しかったことも一因にあったかもしれない。
 何れにせよ、理想的ともいえる人間関係のそこは俺にとってはこの上なく居心地のいいぬるま湯であり、適当に受験しただけだったはずが、いつしか愛すべき学び舎へと変貌していた。
 二学期、三学期と時間は過ぎてもそれだけは変わらず、俺の高校生活初年度はあっという間に終わりを迎え、気がつけば二年目の夏を迎えようとしていた。


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