奇跡のお墓参り

今年もお墓参りに行けた。
毎年当たり前に行けていたお墓参りも今回はちょっと違う。いつも一緒にお墓参りに来ていた父がいないのだ。
昨年一緒にお墓掃除をして、お花あげてお線香をあげた父がいない。
毎年お墓参りの後、食事をして一年に1回顔を合わせてたわいもない話をしていた父がいないのだ。
その父はベットの上。
今は病院で寝たきりである。
思い出すのは毎年の家族行事はいつもこのお墓参りだった。
なんの不安も感じずに家族に身を委ねて、子供のままに家族と過ごした時間を思い出した。
あの頃は、こんな時間が永遠に、毎年続くと思っていた。
月日は流れてそんなこともなく、それぞれが大人になって家を出て、そのうち家族もバラバラに離れて家も手放してあの頃のかすかな思い出だけが偉大な程、大きな存在に思えて奇跡に感じるんだ。
あの時の差し込んだささやかな光は今ではまぶして二度と見ることはできないんだと思うと切なくて悲しくて人生においての幸せなんてないように感じる。
本当は人生に幸せなんてものは理想なだけであって、現実は酷く冷めたつらいことばかり。
そんな物事の中で、時々幸せみたいな小さい光が心の隙間を埋めてくれて幸せになった気分になるだけで、ほんの少しその光に心を奪われて現実を忘れているのが幸せと勘違いしているだけなんだと思う。
だってさ
家に帰ったら温かい雰囲気で
おかえりって言われたいし。
ただいまって言ったところで3回スルーされて
家に帰ってきた感はないし。
きっとなにかが気に食わないんだろうな…
お互い一緒にいたくないのに
同じに家に住んでるなんて人間てつくづく一人で生きていけないんだなって思う。
本当は1人で生きたいのに
生きていけない現実があるのよね
家族の作り方ってなんだろうね
家族って儚いね
なんでこんなバラバラになるんだろうね
世の中の家族ってこんなもんなのかな?
こんなに帰っても祝福というか歓迎もされないのが現実ってもんでさ

きっと2週間後には
そんなことも忘れて
大きな声でただいまとか言われちゃって
そに日あった身の上話や楽しかった出来事とか言われてご飯の用意させられるのかな。

人生ってこんなもんだよ。
幸せなんて言葉は、不幸になるだけだよ。
人生には日々おこる思い通りにならないことだらけで
思い通りにならないことだらけだから
辛くて嘆いて悲しんで
たまに優しくされたり、良いことがあったりなんかして幸せと勘違いするだけなんだよね。

人生なんて楽しいことはあっという間に過ぎて
あとは日々、思い通りにならないことと向き合って、人生嘆いてもがき苦しみながらも
たまに現実逃避するっていうのが自分の人生なのかな。
この先の未来に希望なんてなくて
絶望感を少しずつ受け入れて受け入れて
それでも生きていくのが人生なんだよね。
ゲームみたいに簡単にリセットボタンが押せないのがつらいところ。
朝起きたらまた決まりきった流れの中を生かされて絶望感に立ち向かうんだよね。
絶望感に立ち向かうことこそ人生なのかなって思えてくる。

そんな中でも、1人できないお墓参りをみんなで協力して準備して、掃除して、花供えてお線香あげてご先祖様にお話できたことが嬉しくて嬉しくて達成感を味わうことができたのだ。

本当に嬉しかった。
お父さんかいなくても微力な力を合わせて一つのことを成し遂げた。
それが毎年当たり前にしてたお墓参りが
本当は当たり前には出来ない尊いことだったなんて
今更体感して知ったんだ。

本当に嬉しかった。
これが私の束の間の幸せである。
当たり前に出来ていたことが当たり前てはなく

絶望に向き合うためのほんの癒しで
絶望をほんの少し忘れさせてくれる時の流れだったんだ。

ありがとう。

気付かせてくれてありがとうございました。

人生は絶望の繰り返し。
たまに忘れさせてくれる光がある。
ほんのちょっとだけ。

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