介護士の職権乱用について

「本当にありがとう」
そんな言葉を 利用者さんから貰えることで
また頑張ろうと思える・・・・なんて。
職権乱用だと思う。
それは介護には全く必要がない話なのに。

介護って本当は感謝されるものではないのにね。

だけど世の中には
感謝することで、誰かの役に立っていると思う人
感謝されることで、誰かの役になっていると思う人
がいて

一見それはバランスが取れているかのようにも思えるんだけど、
でもよく見てほしい。
何度も見てほしい。
そして 気付いただろうか?
気付いてしまわれたであろうか??

どちらも「自分の」ではなくて
「誰かの」になっていませんか?

誰かの役に立っていると思えることがそんなに重要なのか?
誰かの役になっていることがそんなに大切なことなのだろうか?
なぜ人は
自己価値を求めてしまうのだろうか。
なぜ人は
自己価値を自分で判断しようとしてしまうのだろうか。
なぜ人は
自己肯定感を誰かに求めてしまうのだろうか。

最近 すごく感じるようになったことは
それは もしかすると
「自分が生かされていることに気付けていないからなのかもしれない」と
そう思うことがある。

小さいときに
「お父さん、お母さんにありがとうを言いましょう」と
幼稚園の先生が言いました。
小学校に行ってから
「戦争があった時代は『お国に感謝』が絶対だった」ということを知りました。
そんなことを平気で言えるのは
自分が生かされていることに気付けていない人なのかもしれない と。

私自身 二人の子供を産みましたが
私が生んだのではないと思っています。
なんていうと 「親失格」なんて言われてしまいそうですが(笑)
でも私は体を使っていただいただけなんだと思います。
だって自分の意思で子供を産んだように見せられている、思わされているだけで
私の力だったことは 多分何もないんじゃないかなと。

おなかの中で育ってくれた、子供たち。
スクスクと育ってくれたのは 私の力では決してありません。
出産という門を子供たちが何事もなく通過できたのも
ここまで育ってきているのも すべて
私の力ではありません。

そんなことを言うと 宗教的なことのように思われる人も
いるのではないかと。
でも実際
私がしたことは 何かを選択したことくらいです。
でもそれだって
本当に自分の意思で?と思うと
そうではないと 言えるのではないかと思います。
だって、私たちは常に何かしらを見て何かしらを知り何かしらを感じています。それが、私たちの意思のほとんどがそこからの影響だということは
言わずもがなではないでしょうか。

なので
私は子供たちに感謝されるいわれはなにもないのです。
「産んでくれてありがとうございます」という思いを抱くなら
それは

親でも国でもなく「この宇宙」のすべてへの感謝なのだと。

とはいっても
親があってこそ子は育つし
親がこうしていられるのも国があるからなわけで
どちらにも感謝なのでは?となるかもしれません。

けれどもそれらすべて、本当にすべてが

自分たちの力でソコに在るのではなく

一人一人が生かされていること
細胞一つ一つが 生かされているということ

その大前提がなければ
こうしていることは決してあり得ないのですから。


私は
肯定感は
活かされていることに感謝できる中で
生まれてくるのではないかと

そんな風に最近思います。

だから
理想といわれてしまうのかもしれないけれど
本当なら 介護という関係性は不要なのではないかと。
誰かが 誰かを支える。ただそれだけのことで
それが当たり前なこと、自然なことで
そこに「ありがとう」というお礼は要らなくて
本当に「ありがとう」とかんしゃすべき部分がどこなのか

自分とは?

その問いの答えは
まだまだ私には見えません。


もっと読んでみたい!という気持ちが 何かを必ず変えていきます。私の周りも、読んでくださった方も、その周りも(o^^o)