談話(仮) Vol.1 「他者」について

※以下のやりとりは2020年某月某日、都内某所のコメダ珈琲店にて行われました。

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プロフィール

N
1986年生まれ。東京都出身。会社員。最近見て面白かった映画はラース・フォン・トリアー『ハウス・ジャック・ビルト』。
K
1985年生まれ。東京都出身。公務員系。北インドカレーにはまる日々。チーズナンには目がない。

「他者」を最初に意識した時は?

K:じゃあどっからいきます、話の入りは。

N:考えてたのは…他者っていうものを、最初に意識した時の話からかな。

K:自分の場合は、大学に入った時に、同級生が奨学金をとってるという話を聞いて、今までの自分の学校生活が極めて特殊なものだったと、自分で学費を出す人がかなりいるんだなと、自分が今まで経済的に苦労することなく何も知らずにここまできた、って思ったのが一発目なのよ。
自分とは、違う生き方の人がいるんだと。
自分が通ってた学校が、ある程度の人が集まっていた、学費も安くない私立で、この生活が普通だと思ってたわけ。
で、大学入った時に、今目の前にいる人たちは、全然自分とは違う人生を歩んでここにきたんだな、でも同じところにいるんだな、と思ったのが最初のとっかかり、目覚めた瞬間。

N:大学までは、ある程度同じクラスターというか、住む場所も含め、としか接してなかったわけか。

K:自分が普通だと思ってた。

N:それは、他の人も、自分と同じだと思ってたってこと?

K:人生に違いはないというか。

N:ほーそこまでいく?

K:例えば、モテるモテないとかみたいな差はあると思ってたよ。
でも人生の見えない部分、不可視の部分には差がない、大体みんな同じような人生を歩むんだと思ってた。
ジャニーズ系とか、顔が悪いとか、見えてるところの差でしかないんだと。
ベースはみんないっしょっていう認識だった。
だから大学入った時のことで、異様に覚えてるのが、人並みにファッションに興味を持って、他の人と同じような眼鏡を買ったり、同じような服を買ったりしたことで。

N:同じようなものを選ぶのは意識して?それとも無意識?

K:両方だと思うね。いわゆる変身願望的な、今までの自分にはさよならみたいな感覚。
全く無のところからは自分は作れないから、だったら人の真似をして、その人になってみようという。
外国人のモデルばっかり載ってる雑誌買ってみたり。

N:なつかしい!なんだっけ。

K:SENCEですよ。

N:なんでそれを買うんだっていう(笑)。メンノンとかSmartとか大学生が買いやすいやつがあるのに。

K:いきなりSENCEだからね。

N:確かにあったね。

K:五段飛ばしみたいな。

N:なんでそこいったんだっていう。いってよかったんだけどさ。

K:だから、大学がきっかけ。自分とは違う人が大勢いる、というか自分と違う人しかいない。
ただ、その中である種の同質性も感じてたけど。だんだん小集団が築かれてきたり。同質性と差異を同時に感じてたかもしれない。

N:中高の、クラスで仲良くするというのがなくなって、制限が緩くなって、大学では自分の意志で集まって集団を作るから。

K:そうね。つきあいを切れる自由があるからね。中高はなんだかんだ言っても切れないですよ。

N:閉鎖的なんだね。

K:大学は伸縮性が緩い輪ゴムみたいな。でも枠内にいてねという。

「層」と「円」

N:それは俺も近い感覚はあって。
これはあくまで自分個人の話だからみんなが同じってことではないんだけど、中高までは狭い空間にいたんだよね。層が単一だったところで生きてきた。
でも大学以降でどんどん、重なるレイヤーが増えていく感じがしてた。

K:自分は円のモデルなんだよね。ベン図的な。
バイトの自分、家庭の自分、個人的な自分が重なってる。円ごとにキャラを演じてる。その中でも、大学の自分が強い。

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(上部左が「層」、右が「円」)

N:大学でできた自分がその後の基本になったってことなのかね。
で、それは自分の人格の話でしょ?
いろんな面にぶつかるようになって、その円が増えていく。面に対応するために、円の大小の違いはあるけど、キャラが必要になっていった。
それは、俺もそうだと思うんだけど、俺の言ってる層は、個人のこと、俺の中の変化というよりも、この層は社会であり…。

K:世界?

N:まぁ世界的なことを指してることでもあるし、言い換えると、非個人的な枠組みのことで。
この層の中にいろんな人がいるのよ。この中の一人が俺。層の中の人の数は増えてく。で、レイヤーが下にいくつも重なってる。
俺の大学で感じた変化っていうのは、自分の話じゃなくて、他人というもののとらえ方の話なんだよね。
他人が無限に増えていくこともそれ自体は驚きだけど、それじゃなくて、層がいくつもあって、例えばある人にとっては、第2階層の深さしかないけど、別の人はもっと下まである。

K:それぞれの階層で出会いがある?

N:いやそうじゃなくて…。出会いはこの表層でしか起こらない。
あくまで俺の中の表層だけど。もっと上に層があるかもしれないけど、とりあえずはそう。
で、その表層の中の他人との出会いという平行の動きに、他人のとらえ方として、下に入っていく動きが加わったのが、大学からなのかな…。

K:この発想はなかった。

N:いやこれ変に複雑な言い方をしていて、単純に言うと、人間っていうのは複雑なものですね、っていう。

K:超越的なね。

N:うーん、超越的っていうのはさ、どうなの?

K:俯瞰して世界を見るとかではない?

N:全然違うね。全然違うのかもわからないけど少なくとも今はそういうのはない。
超越っていうような、言葉の話だけで言っちゃうけど、上方向から、の話ではないよ。自分はこの表層から動けないから。

K:この大勢の他人の中に特別な人はいるわけじゃん。その特別な人の深層を知っていく欲求は…。

N:あるある。それは「そうなんだ」と思う。
この他人という存在は複雑なんだっていう…一人一人に対して…言い方がむずかしいな…。

他者は「死者」である?

K:また自分の話しちゃうんだけどさ、この円のモデルは自分だけじゃなく、他の人も同じものを持ってるじゃん。そこで、元カノの話なんだけど。

N:うん。

K:あの子とだめになって、明確にわかったのが、自分の思ってることと相手に思ってることを完全に一致することはできないわけだよね。
俺のことわかるでしょ?私のことわかるでしょ?ってのは全部「つもり」。だからわかったつもりのゲームを人間はずっとしていく。
で、彼女の世界と自分の世界が触れなくなってしまう時がある。それが例えば「別れ」という点なのかなんなのかわからないけど。
ふと一か月前にこのテーマになって、色々思い出したんだけど、彼女は今自分にとっては死者と一緒なんだよね、感覚的に。…ちょっと言いすぎなんだけど。

N:今の自分にとっては?

K:たまに近況を教えてくれる連絡をくれるんだけど、でもそんな感じになってる。
で、さらに思うんだけど、一切連絡とってない別の元カノもいて、この人は、自分にとっても、相手からしたら自分も、死者と一緒なんだよ。
ふれないんだよね、世界が。触れた過去はあるかもしれないけど、今ここでは触れない。
今の円に触れなくなるっていう。

N:いやでも、キーワードとして言葉を拾うと、死者って、究極の他者だと思う。

K:なんで死者って話をしたかというと、例えば自分にとって理解不可能な考え方をしてる、だけど物理的に世界に存在してる、っていう人間って、もしかしたら自分にとってはある種の死者なのかなと思ったりして。
でも存在してるし、そこに生の意味があるとも思ってるけど。
そこで、もう今は会うことがない人たちって俺にとって死者と同じなんだっていう。
あの子は元気かな、あの子はどうなってるかな、とか思う対象なんだけど。
っていうと、死者ってなんだろうっていう。
でもいざ身内が死ぬと悲しいじゃん、泣くじゃん。その差ってなんだろう。二度と会えないっていう。
…今更ですけどね、ぼーっと生きてますよ。

N:急にそれ言われても…。

共有した「つもり」になる

K:この層のモデルは自分にとっては新鮮かもしれない。
この下の層に向かっていく矢印は永久に他の矢印と交わることはないわけでしょ?

N:…うん。そうだね。

K:それは他なるものの本質だよね。触れてしまったら、何かを共有したことになるけど。

N:あなたには「共有」というベースの考え方があるわけだよね。

K:そうそう。どっかで触れてるだろうって。

N:でも俺の言ってることは…。

K:永久に触れない。

N:確かにそうかもね。

K:触れたつもりになってる。でもそのつもりが大事なんじゃない?

N:その通りだね。…この対話の答え全部言ってますよそれは。

K:「知ってるつもり!?」ですよ。ラルクね。「forbidden lover」。

(『知ってるつもり!?』の主題歌だった)

N:つもりは大事よ。それはもう、架空のものでしかないんですよ。

K:そうそう、言語とか、国家とか。
で、層の表層においては、円のモデルは成立してるんじゃないかと思う。でも下では通用しない。

N:ま、そうだね。

K:相手を刺したとき、相手の痛みは共有できない。同じように自分を刺しても、同じじゃない。それは何が分けてるのかっていう。

N:またちょっと話変わるけど、指摘されて思ったけど、円のモデルは、他人の円と接近していって、重なる瞬間があるけど、俺の中に、こういうモデルはないな。

K:触れないよね。

N:触れてないんだけど、俺もつもりは大事だと思ってて。
虚構とか架空、裏付けがなくて、かりそめのもの、が大事なんだよね、人間は。かりそめこそが、嘘、フィクションが人間にとって本質なんですよ。
というか、それを本質にしないと、すべてが瓦解するから。終わりなので。言語でも国家でも。
でも人間ってもともと交わらないんだから、言語とか国家とか必要ない っていう人もいるかもしれない。
でもそれは無理よ。何で無理か、人間ってつもりとか架空とかが大事っていうと…。

K:人間って共有したいんだよね。

N:なんでそうしたいって話になるけど。

関係が本質である

K:和辻哲郎の「間柄」的存在っていうのを知って。

N:人と人の関係性ってことでしょ。個人個人が本質じゃなくて、個人と個人の関係の中に本質があるっていう。これによって成り立ってる。

K:そうそう。ベン図の、円が重なりあってるところに自分があるんじゃないという。じゃあこれの重なり合う中心点はなにっていう。

N:だからそれは嘘じゃない?

K:自分が捏造してる自己。でもこれがないとだめ。デカルトじゃないけど、これが肉体なんじゃないかって話もあるけど。
で、本質は、自分の円と他の人間の円が重なっているところにある。

N:紐帯だ。

K:そうそう。ゆるい紐帯。

N:もう…完璧な回答じゃない?

K:これは九鬼周造も言ってた。「いき」ってなに?っていうと、この他の人間との関係のところのことだと。
男女が完全に相手にもたれかからないという。

N:いきそうでいかない、中庸、あわいでしょ?

K:そうそう。ぱっと関係がなくなったとしても、それはもう、諦める。「あきらむ」。

N:それってやっぱ「依存」することは違う、ってことを言ってるのかね。

K:九鬼は『偶然性の問題』って本もあって。AさんがBさんでもありえたわけですよ、ってこと。つまり誰でも誰かででもありえた。

N:交換可能ってことか。

K:例えば事故で死んだ他人、それは自分でもありえたわけ。そこで戦争の話が出てくる。
戦地に行く人を、いってらっしゃい、って見送った人がいるとする。
たまたま自分が見送る側になってるけど、実は、相手の人生をひっくるめて自分なんだっていう。
でそれが歪曲されていくと、大東亜共栄圏・大東亜戦争になってしまう。
和辻に戻ると、関係性の中に現象しているのが、自分なのかな、と思う。
でも自分は何かにからめとられているかもしれないけど、「接近」もある気もするんだよね。
マルクス・ガブリエルは……。

N:俺なりの理解で言うと、円のモデルに近いけど、単一の世界は存在しなくてことを言ってる。
個人の世界が無数にあって、それが重なったりしてる。円のモデルが、個人のモデルじゃなくて、世界全体、全体はないけど、複数の世界のモデルになってる。
他者の話に戻りたいんだけど、俺はなんで他者にこだわるっていうのは、ラカンを読んで…っていうかラカンの理論を紹介しているような本を読んで知ったのが、人間って自分の生まれた瞬間を語ることができないっていう。語る言葉を持たない。
三島由紀夫は覚えてるって書いてたけど、まぁみんな普通は生まれた瞬間の記憶もない。じゃどうするんですかっていうと、他人に語ってもらう。

K:「かわいかったよー」みたいな。

N:そういうのもひとつ。つまり、後から知るしかない。でもそれが本当か嘘かはわからないよね。
でもそれを、他人を信用するしかないんですよ。で、それは自分にとっては結局架空の話であって。人間って他人がいないと生まれてこれないっていうことになるんですよ。
それは生殖的な意味でもそうだよ、今のところはだけど。サイヤ人みたいに生まれる子供はいまのところいないってことになってるから。

K:サイヤ人ね!

N:『ドラゴンボール』見たことないでしょ。

K:俺、全部見た。

N:どうだった?

K:…最高だったね。

N:『ドラゴンボール』ってのも、他者の話じゃないですか。

K:アイデンティティーの話でもあるね。

N:出自もわからない他者が突然やってきてという話。
さっき究極の他者って死者だって話したけど、死者って宇宙人のことだと思うんですよ。
一緒だと思う。
だから、外の星から突然やってきて、なんだかわからないけど名付けられて……。
話を戻すけど、名前をつけられるってことも、このことと同じ。自分で自分の名前を付けることは、本質的には、できないよね。人に名前を付けてもらう、呼んでもらう。これがないと人間って人間たり得ない。

自己は「他」である

K:ちょうど今日檜垣立哉の『食べることの哲学』を買ったんだけど……。人間は他者を食って生きているという、本質的に人間とは「他」なるものなんだっていう話で。

で、吉野弘の「I was born」って詩があって。
息子が父親に、"I was born"て、受け身なんだ、生まれさせられるんだって言う。父親はそれを「生まれてこなければよかった」って意味だと思うんだけど、息子はただ単に文法上の発見として言ってて、つまりここにすれ違いが起こってるんですよ。アンジャッシュ的な。

N:…。

K:根本的に自己っていうのは、自分だけで成立してない。自己は「他」なるものだ、っていう話なのよ。
人間って、生まれたくて生まれているわけじゃない。生まれさせられる、つまり受身的な生。
で、誰かの行為によって生まれたんだ。生れた瞬間から、他者性を持ってるんだっていう読み。
つまり自己は「他者性を発見していく」者ということ。

N:子供は他者ですよね、言ってしまえば、我々にとっても。自分の子供が生まれたとしても、それはもう圧倒的な他者でしかないし、子供自身も他者であるし、周りも他者である。
他者によって生まれさせられる。自分の意志ではなく。ここには自己がない。

K:でもある意味捏造して生きていくんだろうね。

N:兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか』を読んだんですけど(https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000315318)。なんで人間て自己があると思うのかっていうと、自分の相対するものが昨日と今日と明日で変わらずあり続けるという連続性、連続し続けるということによって自己を成立させていると。

K:昨日の自分も、今の自分も、ってこと?

N:それは自分じゃなくて周りのこと。自分はまず無いのよ。
で、自分以外の人間、物が昨日もあって今日もあって明日もある、って思ってるのが、自分。思うことができるのが、自分。
自分が思うんじゃなくて、外部から矢印を浴びせられて自分が成立している。
逆に言うと自分以外のものがすべてなくなったら、私が私であると成立させる、保証する力は私にはないのよ。一秒前の自分と一秒後の自分が同じだと証明する力は自分にはない。

K:他者によって証明される。

N:まぁそうね。

K:「前にこんな風に言ってたじゃん」みたいに。

N:そういう言い方もできるし、単純に存在してくれるだけでもいいわけ。指摘する必要もない。その辺歩いてくれててもいいんだけど。
A地点からB地点に人が歩いている、のを見ている自分は連続してるじゃん。連続している人の動きをみる、俺も連続している、っていうことですよ。

K:なるほどねー。

N:むこうから何も投げかけられる必要もない。人でも何でもいいんだけど。
で、問題は、それは反復とか連続によって自分は自分だと思うってことじゃないですか。
じゃあそう思えなかった時、毎回毎回毎度毎度毎瞬間毎瞬間、常に新しいものに出会う、
そうなったときに私の連続性というのは断ち切られてしまう。私というものはなくなって、融解して、溶けてしまう。それが、まぁいろんな病気として表出するっていう。
あと、連続性っていうのは科学だと。科学は連続性があるというのを前提としてる。
で、芸術は一回性の営為であると。毎回毎回都度都度出会いなおすことができるもの。昨日と今日が同じ、という確証がないもの。
で、この2つを繋ぐものが哲学だろうと。相容れないものの間をとりもとうとがんばってるもの。
だから必然的に矛盾をはらむし、完全な統一解がでないもの。でないものをあらかじめ扱おうとしてるから。
でまぁ要するに自己っていうのは他者によって成り立ってるってことが言いたいのよ。ラカンもそうだし、この話もそうだけど。

K:ラカンに前からすごいこだわってたよね。

N:単純におもしろい、新鮮じゃないですか。あ、そうか、と思うしね。
鏡像の話もそうだし。鏡がないと自分の像を結べないという。じゃななんで自分の像をむすぶ必要があるんだって話ですけど。おそらく自分と、自分以外のものの境目をつくらないと、人間って生きていけないんだろうなと思うけど。そうしないと、おかしくなっちゃうから。
正常で、普通に生きてくために他者の存在が必要で、その他者っていうのは、自分を支えてくれるもの、自分を名指してくれるもの、自分の代わりに連続してくれるもの、他者という存在に依存して人間という自己は成り立っている、ように思ってる。
おかあさん、おとうさん、ってことだよね。おっぱいをすったら、おっぱいが出てこないと、生きられないからさ。そういうことですよね。メラニー・クラインの「悪いおっぱい」というのもあるけども。
他者っていうのは…まぁさっきあなたから結論が出ちゃってるから、俺なりのアプローチをしただけだけど、自己というのはなくて、他者との関係性の中に成り立ってるという、これが答えで、もう出ちゃってるから、この話はこれで終わり(笑)。あとは蛇足ですね。

K:でもこの層のモデルと円のモデルと接合したいんだよね。

N:こだわるねー。

K:層の表層においては円が成立しているんじゃないかと。円は変わっていくじゃないですか。
まさにこの下に向かってる矢印こそが「他」なるものなんじゃないかと。
これに誰も触れることができないじゃないですか。自分自身も触れることができないでしょ。

N:うん、そうだね。

K:無意識によってしばられてる。

N:無意識なのかわかんないけど。

K:絶えず自身を他者との対話の中で再構築し続けるという。永久に自己は完結されない、外から形作られる。
実感、ってのはないんだけど…。むずかしいね。

死者/他者との関わり方

N:じゃあ、他者とどう付き合っていくかについて。

K:難しいけど…。円を広げていく。相手と触れさせて、円の形を変える。へこむこともあるけど、大きくなることもあるし。つまり自分を動かし続ける。
だからやっぱ…「考える」ってことだと思うんだけどね。この人にはこのアドバイスだけど、あの人に同じものが通用しない。じゃああの人にはどう言おうかなーとか。

N:シンプル!考える、ってことは正しいんだけど、でも他者って、さっきの言い方だと、死んでるんでしょ。死んだ人間のことをずっと考えるの、ってのがあるよね。

K:それはもう…網羅的に調べ上げるしかないんじゃないの。

N:他者を?

K:だからこそ、歴史。

N:ああー。

K:例えばその人がどういう人生を歩んできたかとか。

N:それはやっぱり一方的ってことだよね。

K:そうなっちゃうんだよね。

N:究極的には、相手からのこっちへのアプローチというのは、存在しない。

K:そうそう。他人とは離れていくからね。

N:離れていくことしかないってこと?近寄らない、近寄るけど、最終的には離れてしまうってこと?

K:だって、一致はしないから。
でもやっぱり実際の「死」というものの、特別な感じはあると思うんだよね。

N:まぁそりゃああるよ。

K:だけどじゃあさっき言ったみたいに、会えない人は死んでるのかっていう。

N:実際に起こってる「死」との差異は、っていう。

K:もうそういう人には会えないわけじゃん。でも会えなくなっただけの人ははどっかで生きてるわけじゃん。可能性を残してるわけ。

N:会えるかもしれないし。

K:さっき自分は死者と同じって言ったけど可能性を残してるわけじゃん。

N:可能性の死者?

K:そうそう。だから、死のレべルってのがあるんだなと。

N:完全に死んでるか、ソフトに死んでるか。

K:死の中のにもあるんじゃないの。

N:グラデーションが。

K:あっち側の死と、こっち側の死が。

N:こっち側に近寄ってる死者も、あっち側にいってる死者も、他者は他者だよね。

K:そうそう。同じカテゴリーにはあるんだけど。

N:他者=死者だとして、他者にもいろいろなレイヤーがあるってことだよね。

K:あると思う。

N:「あると思います」じゃん。

K:ほんとにね…切に思う。マジで。

N:なにを!?

K:ハードな死者やソフトな死者とはもう会えないけど、スーパーソフトな死者は、可能性がある。召喚できる。

N:それはさ、ありえたかもしれない…。

K:そうそう、それそれ。

N:可能世界、みたいな。

K:『四畳半神話大系』と同じ。

N:なんか東浩紀もそういうこと言ってるよね。過去において分岐点があって、みたいな。

K:実は現実世界でもね、そういうことが起こってんじゃないかって。

N:隣り合った別の世界では、別の選択をしてる自分がいる。

K:デジャヴがそうだから。

N:おおー。

K:『マトリックス』ですよ。

N:トニー・スコットの『デジャヴ』もそうですよ、繰り返し過去に戻って過去を変えちゃう。

K:それあれじゃん、霜降り明星の粗品がやってたじゃん。商店街を何度も歩くやつ。

N:見たけど…。

K:あれやばくね?

N:まぁね…。

K:ソフトに死んでるやつを、なんとかならないかという、オファーをする…。

N:オファーシリーズだ。

K:24時間ね。全国回りますから。

N:やべっちの方だよね。岡村のオファーシリーズは自分にくるじゃん。やべっちのオファーって、相手に行くのがオファーでしょ。パン屋さんとか。

K:27時間テレビだよ。

N:私の27時間テレビってこと?

K:スポンサーつかねぇだろうな…。

N:つかないねぇ。

K:それはそれでいいや。今とりあえず、「死」に段階があるのがわかった。
スーパーソフトに死んでるやつは可能性がある。大きな収穫だね。

N:出会いの可能性。

(次回のテーマは「東京」を予定しています)

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