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#ネタバレ 映画「座頭市」〈2003年〉

座頭市〈2003年〉
2003年作品
テレビ
2003/9/11 16:52 by 未登録ユーザ さくらんぼ

( 引用している他の作品も含め、私のレビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 )

映画を観るまでは、この「ご時世」に作られた「座頭市」(映画「座頭市物語)だから、暗闇(精神世界)の感覚と現実世界とが見事にシンクロし、結果として凄い居合いを魅せる、これもやはり映画「マトリックス」を意識しているのかと思っていた。

しかし、実際に映画を観て、まったく違うと分かった。この映画「座頭市」は「擬態」を描いていた。

女装した男、彼女たちや座頭市の仕込み杖、そして三味線の弦、善良そうに見せた居酒屋の男二人、などがそうである。そのモチーフは座頭市の目が見えることにつながっていく。

そして、悪人の擬態が、それを上回るパフォーマンスの善人の擬態によって敗れ去る様を描いていた。悪人のボスが老人である事から(老人である事がセリフでもダメ押し的に語られている。)これは北野監督による新旧交代の宣言とも思えてしまった。ビートルズなどを思い出せば分かるとおり、昔から若者たちは、斬新さを武器に時代を切り開いてきたのだろう。

それから斬新なタップダンスも上出来であった。ひとつ間違うと、観ているこちらが気恥ずかしくなる心配もあるアイディアだが、まったく違和感無く時代劇に溶け込んで、インド映画ファンの私には楽しい映像だった。とくに二列目の、黄色い着物に赤いわらじの紐で踊る女性たちが可愛らしかった。

北野監督の「座頭市」は勝新太郎さんの「座頭市」をまったく新しい感覚でリメイクした。R-15でもあるし、差別用語が入っているので、もしかしたらテレビでは放映されないのかもしれない。そうだとしたら、なにかしら北野監督から勝新太郎さんへの想いや、覚悟が、がそこに現れているようにも感じられる。

お前はこの作品が好きかと聞かれれば、昔の勝新太郎さんの作品の方が好きである。もしも他の北野作品には感じられた「詩情」をもっと感じさせてくれればさらに感動したと思うけれど、そうしないのもまた監督の計算の内に違いない。

追記
2003/9/17 19:09 by 未登録ユーザさくらんぼ

ところで「擬態」とは何を指すのだろうか。それは詰まるところ「職業」の事かもしれないと思う。人は生まれながらの顔だけでは生きにくいこともある。だから色々な精神のお面を被り生きている。学校の先生は先生を演じているし、魚屋さんは魚屋さんを演じているのである。

ところで「案山子」もまた「擬態」のひとつだと思う。劇中、たしか「案山子」を背負った一団と座頭市が道ですれ違うシーンが有った。あれは葬儀の一団の様な雰囲気だった。人々が「案山子」に込めた思いの重さを感じるシーンである。「案山子」には鳥を追い払う事の他に、畑に着く悪霊を払うと言う意味もあるらしい。この場合の悪霊とは市が戦った相手だろう。だから「案山子」はモチーフの一片であるだけでなく。座頭市自身のシンボルだったのかもしれない。

追記Ⅱ
2003/9/17 21:36 by 未登録ユーザさくらんぼ

そうすると、北野ブルーの文字がでーん、と出るファーストシーンで、座頭市が熟睡しているわけでもなく、かと言ってハッキリと起きているわけでもない。どっちつかずのあの不思議なボンヤリ状態は、案山子を演じていたのか。そう言えば、あそこにも子供が出てきた。そして案山子のご利益で悪霊は退治されたのである。もしかしたらファーストシーンは、この映画の暗示的なシーンだったのかもしれない。

追記Ⅲ
2003/9/21 15:46 by 未登録ユーザさくらんぼ

座頭市はハーフである設定にして、だから金髪かと思っていたが、もしかしたらあの金髪は「麦わら」の意味も込められていたのかもしれない。

それから座頭市が案山子に降臨した神様だとしたら、野菜らしき物が入った籠を背負って、農民代表であるおばさんの手伝いをしてあげるのも理解できるエピソードである。そしておばさんの家に居候(家の守り神)になるが、家を空けたとたん火災という災難に見舞われる。火災という設定に、お祓いでもしたくなる様な臭いが感じられた。

また座頭市の仕込み杖。勝新太郎さん時代は、確か、ただの白木製だったような気がするが、北野監督の映画では「朱塗り」の仕込み杖になった。派手な演出だと思ったけれど、神社の鳥居などを見ても分かるとおり、朱には災厄を祓う意味もあるようだ。子供のいたずらにはまったく無防備な案山子様であったが、ひとたび悪霊を見つけると問答無用で神業を魅せるのであった。

追記Ⅳ ( 秘伝のタレ ) 
2014/11/4 21:54 by さくらんぼ

先日、どの新聞だったか忘れましたが、北野監督の映画に出てくるギャグの類、いや、必ずしもギャグに限らず、演出の類は「間が絶妙である」みたいな事が書いてあるのを喫茶店で見ました。定石をわざとはずしているのだそうです。それが斬新だと(慌てて読んだので正確には覚えていませんが、概ねそんな話です)。

確かに、そうかもしれませんね。

それで、いったん、その話は忘れていました。

今日、また新聞を見ていたら北野監督の映画「座頭市」をTV放送するとの広告が目に入りました。

ここで素朴な疑問。

なぜ、北野監督は映画「座頭市」を撮ったのでしょうか。

ひょっとしたら、これも居合斬りという名の「間」を撮ったのではないのかと…

ビートたけし時代から北野監督はギャグに生きていました。そして、ギャグは「間」が命なのでしょう。

鰻屋が移店するときは、長年にわたり継ぎ足し継ぎ足し使っていた秘伝のタレを大事に抱えていくように、武は「間」という秘伝のタレを抱えて、映画界に進出したのです。

それでギャグを撮り、座頭市を撮った。

知っている人にとっては今さらながらの話しでしょうが、武映画の神髄は、この「間」にあったのかもしれませんね。

良く知られた「キタノブルー」だけではなく。

追記Ⅴ ( 新作映画「龍三と七人の子分たち」 ) 
2014/11/6 22:03 by さくらんぼ

もうけ話でも探して、喫茶店で日経新聞を読もうとしたら、すでに誰か先客がいるようで、マガジンラックにはありませんでした。それで、しかたなく(失礼)スポーツ紙を手に取ったら、思いがけず良い情報を仕入れることができました。

北野武監督17作目の新作が(いつのまにか)完成したそうです。

公開予定は2015.4.25で、タイトルは映画「龍三と七人の子分たち」です。

これは、オレオレ詐欺(ガキ)に引っかかった元ヤクザの親分(ジジイ)が、かつての子分たちを集めて(平均年齢72歳)仕返しをする喜劇タッチの作品で、藤竜也さんが主演らしいです。

北野監督によれば「国際的にもジジイが大活躍している時代」なのだとか。そう言えば、ローリング・ストーンズだとか映画「RED/レッド」とかもありましたね。

さらに、映画はすでに完成しているけれど、公開は来春のため「誰かの遺作になったりしないよう、皆さんの健康が心配でしょうがない(笑)」とも言っているらしい。

で、例によって考えると…

この作品も「間」のために作られたのかもしれません。

つまり、これはガキたちの「間」と、ジジイたちの「間」にあるズレ(間)を「魅せる」映画なのかもしれません。

また、前述の「誰かの遺作に…」のジョークのタネも、タイムラグという名の「間」でありました。

映画も観ないで早々に戯言を言ってもいけませんね。

かつて映画「白い船」のときも予告編を見ただけで興奮して書いたことがありましたが、あれも予告編から想像したのとは全く違った内容でしたから。

北野武監督の最新作、ぜひ映画館で清く正しく拝見したいと思います。

日経だけでなく、これからはスポーツ紙にも目を通したいと思いました。日経新聞ではまったく(記憶では)この件は載っていませんでした。やはり、読者層とか関係があるのでしょうか。

追記Ⅵ ( 幻 ) 
2014/11/7 6:41 by さくらんぼ

職場からいなくなった人がいる。その理由は様々だけれど、笑顔の思い出のある人については1年ぐらいすると、ふと思い出すことがある。連絡を取り合って会いに行くほど親しくはなかった。でも、その人が消えてからぽっかりと空いた空気が、時間がたつほどはっきりと感じられる。

私にとって勝新太郎さんの「座頭市」シリーズはそんな映画だった。今なら・・・そう日曜日の午後、昼寝から目が覚めてテレビをつけたらやっていて欲しい映画である。そんな観方は堕落しているなどと言わないでほしい、休日の終わりを座頭市に慰めてもらいたいのだ。

いや、それだけでなく往年の時代劇の傑作たちをもっとテレビ放送してもらいたいと思っている。そして夕食までの1~2時間、缶ビールでも飲みながら観ていたい・・・

そんな風に思ってここ「座頭市」の公式ホームページを開いてみたら、なんと北野監督の「座頭市」だった。

もちろん北野監督の「座頭市」にも大変期待している。しかし大先輩である勝新太郎さんの作品たちはどこへ行ったのだろう。なんでも、差別用語が出てくるために放送できないとの噂を聞いたような気がする。

しかし、もう一度あの作品たちを寅さんシリーズの様に、テレビで陽の目をみさせる良い方法はないのだろうかと、時がたつほど思いは深まるのである。

( レビュー「2003/6/1 8:12 by 未登録ユーザ さくらんぼ 」をここに再掲しました。間抜けにも、うっかり別れてしまいましたから。)

追記Ⅶ ( きっと一生、向こうには行けない ) 
2017/10/29 14:27 by さくらんぼ

>しかし、もう一度あの作品たちを寅さんシリーズの様に、テレビで陽の目をみさせる良い方法はないのだろうかと、時がたつほど思いは深まるのである。

昨今は、ときどき衛星放送で勝新太郎さんの「座頭市」シリーズをやっていて、自宅でも手軽に観ることが出来るようになりました。さっそく私も1~2本観たのですが、なぜか、心の奥底がぐずり始めたのに気がついたのです。

少し理由を考えてみたのですが、どうも座頭市が盲目なのがいけないようです。盲目であるがゆえに、座頭市とその他の登場人物の世界観は違っているのです。彼らは「同じ瞬間を生きていながら別世界に生きている」。その寒々としたやるせなさ、居心地の悪さ。それは、座頭市が明るく振る舞うほど、胸に刺さります。

同じ気持ちをどこかで感じたと、思い出してみましたら、映画「男はつらいよ」シリーズもそうでした。「フーテン」の寅さんと他の人たちは、座頭市と同じく、同じ瞬間を生きていても別世界にいるのです。寅さんは、堅気になりたくても、なれない哀しさの中に住んでいるのです。


( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)


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