#ネタバレ 映画「ジュピターズ・ムーン」
「ジュピターズ・ムーン」
2017年作品
ほんとうはみんな空を飛びたいんだ!
2018/1/24 10:46 by さくらんぼ
( 引用している他の作品も含め、私のレビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 )
「 私にも、昔から『空を飛びたい』願望(欲求不満!?)があります。ゆっくりでいいんです。しかし、音もなくエレガントに、スーパーマンが恋人のもとへ訪れるときのごとく飛びたい。
だから一時期、ヘリコプターが欲しいなどと、妄想(金がない)したこともありましたが、よく考えてみると、あんなバリバリ騒音をまき散らす、地獄の黙示録的な乗り物は、イメージではありません。
音もなく飛ぶことが必須の条件です。
そんな願望を、とても近い線で映画化したのが、この作品でした。」
( 映画「空を飛んだオッチ」 私のレビューより抜粋加筆 )
この映画「ジュピターズ・ムーン」には、アクションシーンなどもありそうなので、静かな映画「空を飛んだオッチ」とは毛色が違いそうですが、「宙を舞う少年」という点では似ていますね。上映が待ち遠しい。
この機会に、映画「空を飛んだオッチ」もTVで良いので再観したいものです。
「 空を飛んでなぜ悪い!? 」
「 ほんとうはみんな空を飛びたいんだ!
飛騨の山々を背景に空を飛ぶ力を持った
少年の喜びと哀しみ 」
( 映画「空を飛んだオッチ」、チラシのキャッチコピーより )
追記 ( ほんとうはみんな空を飛びたいんだ! )
2018/1/24 11:05 by さくらんぼ
観ないうちに言うのもなんですが、「イマジン」と言うか、これも「トランプの壁批判の映画」なのかもしれませんね。
「宇宙飛行士が宇宙から見た地球には、国境線は引かれていなかった」と言います。
シリア難民の主人公が空に舞うことで、それを語っているのかもしれません。
追記Ⅱ ( スティーブ・ジョブズ )
2018/1/29 10:13 by さくらんぼ
昨日観てきました。
これは…表層的には「キリスト教」の物語でしょう。だから欧米の人たちには、日本人以上に刺さるはずです(★が一つ増えるはず)。
そして深層的には、アップル社の「スティーブ・ジョブズ」がモチーフになっているような気がします。つまり主人公・アリアンは、ジョブズの可能性があるのです。
飛騨の空気のように清々しい映画「空を飛んだオッチ」とは違い、映画「ジュピターズ・ムーン」は、はるかにドロドロとした空気感の大人の映画でした。それは映画「レオン」にも似た。
★★★★
追記Ⅲ ( コンピュータの記号 )
2018/1/29 11:26 by さくらんぼ
理由はいくつかありますが、面白ところでは、アリアンが初めて空中浮遊をしたとき、部屋にあったストローも浮かび、扇風機に刺さるのです。
あれはハードディスクの記号でしょうか。
すると、ラストに出てくるヘリコプターも同じです。ストローが胴体になっただけです。
そのとき眼下に見える、停止した沢山の自動車は、デジタルデータを視覚化したものかもしれません。
追記Ⅳ ( 主人公・アリアンとジョブズ )
2018/1/30 11:05 by さくらんぼ
主人公・アリアンは、父と共にシリアから来た難民でした。ジョブズの父はシリアからの移民でした。
主人公・アリアンは父とはぐれ、再会したがっていました。ジョブズは生まれる前から養子に出されることが決まっており、父との確執(愛情の裏返し)がありました。
主人公・アリアンは、バイキングでもポテトしか食べません。アルコールも飲みません。ジョブズは菜食を好み、ペスクタリアンであり、アルコールも飲まなかったようです。
主人公・アリアンは、空中浮遊をしたり、部屋の中の引力を操って破壊したり出来ます。ジョブズはLSDで感激した体験をもち、禅の修行では座禅での空中浮遊にも興味を持っていたようです(映画「スティーブ・ジョブズ」参照)。
主人公・アリアンは、空中浮遊の技で、ドクターと共同経営をしましたが、道は平たんではありませんでした。ジョブズのAppleでの人生も平坦ではありませんでした。
映画「ジュピターズ・ムーン」にはスマホがよく出てきます。騒ぎの発端もスマホに撮った空中浮遊の動画でした。そして主人公・アリアンの腕に彫ってあるバイオリンの入れ墨は、かじったアップルに似てなくもないのです。
追記Ⅴ ( ワイロ )
2018/1/31 18:13 by さくらんぼ
>これは…表層的には「キリスト教」の物語でしょう。だから欧米の人たちには、日本人以上に胸に刺さるはずです(★が一つ増えるはず)。
>そして深層的には、アップル社の「スティーブ・ジョブズ」がモチーフになっているような気がします。つまり主人公アリアンは、ジョブズの可能性があるのです。(追記Ⅱより)
これを、もう少し別の角度から観てみると…
映画の前半、難民キャンプで働く医師に、一部の難民が、逃がしてもらったり、優先的に治療してもらったりするために「ワイロ」を渡すシーンが出てきました。
常識的に言えば、何によらずワイロはいけませんね。
しかし、難民キャンプの悲鳴を上げるような喧騒の中でそれを目撃すると(映画館の大画面のリアリティーの中では)、ふと、そんな正論が青臭いような気がしたのも確かなのです。
他の映画に出てきますが、すでに難民が祖国から逃げだすとき、いわゆる「逃がし屋」へ大金を渡すこともあるようですね。
又、それ以前に、過酷な長旅が出来るほどの健康がないと、難民にすらなれないのです。
ここにある非情な「生存競争」。
だから難民たちは、自分の持っているものすべてを使い、その生存競争を戦っているのです。
ならば祖国で、金を稼ぐ力のあった者が、その金を使って生き延びようとすることが、果たして悪なのか。
健康のあるものが、健康を使って生き延びようとするのと、どう違うのか。
才能のあるものが、才能を使って生き延びることは、はたして悪なのか。
そして、この話は天国へと続くのです。
お叱りを受けるかもしれませんが、敬虔なクリスチャンとして生きることは、天国に入るための、神へのワイロではないのか。
難民からワイロを受け取っていた医師は、天使だと信じた少年を守る事で、こんどは神にワイロを積んだのです(天国へ行けると)。
映画のクライマックスで、主人公・アリアンを助けた医師は撃たれてしまうのですが、医師は微笑みさえ浮かべていました。
アリアンを追いかけて銃撃しようとした男も、浮遊するアリアン目前にして(あまりに神がかっていたから)、撃てるのに撃ちませんでした。彼もまた神にワイロを積んだのです。
映画のラストシーンでは、子どもが両手で目を隠し、数を数えています。鬼ごっこの鬼役ですね。なぜ鬼はそんな事をするのか。それは、逃げる者にワイロを積むためでしょうか。
( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)
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