#ネタバレ 映画「真昼の決闘」
「真昼の決闘」
1952年作品
タイムリミット
2003/5/31 9:55 by 未登録ユーザ さくらんぼ
( 引用している他の作品も含め、私の映画レビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。)
最近、ある高級紙の朝刊第一面に映画「真昼の決闘」が紹介されていた。
『 小泉首相とブッシュ米大統領が、初対面で西部劇「真昼の決闘」の話で意気投合したことは有名だ・・・最近、この映画のストーリー展開が、実は日米同盟のあり方を示唆しているとの話が、米国でささやかれている。』
私はこの記事を読んだとき、少し悔しかった。実は両首脳が対談したときから、私もこの話題について同様な見方をしていたからだ。しかし私にはネットで両首脳の名を出してまで、二国間の政治について語る勇気も能力も無かったのである。
映画は宗教上の理由から暴力を否定する新妻や、たしか教会での住民会議で戦わない決議をする人たちが描かれている。いまアメリカでは愛の宗教と戦争について悩む兵士がいると聞く。また日本でも宗教を平和憲法に置き換えれば通用するテーマとなる。
問題の先送りは出来ない。あと80分で敵が来る。有無を言わせぬタイムリミットが映画では設定されている。
そのような緊迫感のあるこの作品は大好きで、昔、テレビで時々再放送をしていたので、そのたびに食い入るようにモノクロの画面を見つめていた記憶が有る。だから今回の事も特に興味を引いたのだ。
ところで、映画の内容だが、何回か観るうちに、はたして主人公はあそこまで我を張って、決闘のために町に踏みとどまる必要が有るのかと思った時期もあった。彼が町を去れば住民をトラブルに巻き込まずにすむのではないかと思ったのである。それが大人の選択だと。
ポイントは同じではないかも知れないが、案の定、あの西部劇の神様であるジョン・ウエインも、この作品に対して疑問を呈していたらしい事を後で知った。
しかし、今は、この映画は「捨てる」こと描いた作品ではないかと思うのだ。自分が捨てたら、捨てた相手からも同様に捨てられる事になるのである。
劇中、元恋人達のエピソードで「どっちが、どっちを捨てたんだ!」という象徴的なセリフが出てきたはずだ。普通は相手を悪く言う方が捨てられた方である。しかし、どちらも相手を悪く言わない。何故なら、それは捨てたら、捨てられるという映画のモチーフへとつながっていくからである。
追記 ( 愛の行く末 )
2011/9/17 11:23 by さくらんぼ
>しかし、今は、この映画は「捨てる」こと描いた作品ではないかと思うのだ。自分が捨てたら、捨てた相手からも同様に捨てられる事になるのである。
愛されずに育った人の中には、なにかの幹事を進んで引き受ける人もいるようです。心の深層の「こんなに努力するから、私を見捨てないで・・・」という声が無意識にそうさせるためで、必ずしも世話好きだからではないのです(世の幹事さんが全員そうだというわけではありません。念のため)。
これを、この保安官に当てはめると「つらくても保安官の職務を全うするから、だから私だけは見捨てないで・・・」と、心で町民や新妻に語っていたわけです。保安官の意固地なまでの職務への執着からそう読み取れます。
それなのに皆は見捨ててしまう。努力すればするほど、逆に自体は悪化し、新妻まで彼を捨て、とうとう一人ぼっちになってしまう。彼がもっとも恐れていた事態になってしまう。このジレンマ。
でも彼は自分の無意識に気づいていないので対処できない。茫然自失のまま猪のごとく突進するしか出来ない状況に追い込まれているのです。まさに悪夢。
そしてラストに用意されていたのは、疲れ果て、心もズタズタに引き裂かれた保安官に、戦が終わったとみて家から出てくる大勢の町民のシーンです。これで保安官はトドメを刺されました。友だ、見方だと思っていた住民にトドメを刺されたのです。彼はバッチを外して静かに地面に落とし、一人戻ってきてくれた新妻と共に去って行きます。
これがこの映画の裏に流れている恐怖であり、隠し味ですね。この映画に共感できるか否か、その理由の一つには、その無意識に無意識で共感できたか否か、そんなところにもあるのかもしれません。
追記Ⅱ ( 二人の女性 )
2011/9/20 21:51 by さくらんぼ
>・・・ 劇中、元恋人達のエピソードで「どっちが、どっちを捨てたんだ!」という象徴的なセリフが出てきたはずだ。普通は相手を悪く言う方が捨てられた方である。しかし、どちらも相手を悪く言わない。
愛を知らずに育った保安官は理性的にしか相手と交われない。つまり感情に任せて友達と恋人の境を飛び越えることに、普通の人よりも臆病なのです。だから熟女の貫禄がある元恋人とは不完全燃焼のまま鎮火した恋なのでしょう。恋ベテランの女から見れば、あの保安官など可愛い幼子同様であり、振ったの振られたのと騒ぐに値しないのです。母親の様な貫禄です。
そのように保安官は、あの歳まで恋の実地研修をいくつもこなし、親から教えてもらえなかった愛というものの片鱗を自分自身で学習していったのでしょう。そうして、ふと気がつくともう中年後期に入っていた。
そんなある日、自分の任地で知り合ったファザ・コンの若い娘と恋に落ちたのです。よく「赤子の手を捻るようにやさしい」とか申しますが、若いファザ・コン娘は、今の保安官にとっては最適な恋の対象だったのでしょう。ここにいたって、やっと彼にも人生の春がやってきました。
しかしです。任期も終了し新婚旅行に出かける、まさにその瞬間に事件の幕が開いたのです。
現代でも、よく電車の中やプラットホームで喧嘩が起こりますが、この場を逃したら相手は電車で逃げてしまう。あるいはホームへ降りてしまう。そんな切迫した状況が人の冷静な判断を誤らせるのです。
この映画の保安官も、退任、新婚旅行、お礼参り、という三つのタイムリミットが重なり、動揺して自分を客観視できない状態になっていったのでしょう。そのため疼き続けていた幼き日のトラウマに振り回されて暴走して行ったのでした。
追記Ⅲ 2022.12.28 ( お借りした画像は )
キーワード「星」でご縁がありました。美しくも、かすかに淋しさをたたえたブルーですね。無加工です。ありがとうございました。
( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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