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#ネタバレ 映画「誰も知らない」

「誰も知らない」
2004年作品
生きる力
2004/8/28 15:30 by 未登録ユーザ さくらんぼ

( 引用している他の作品も含め、私のレビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。)

「ウォーク・アラウンド」と英語で書かれたTシャツを着た長男が出てきます。

どの様に訳すのが正しいかは分かりませんが、小さなアパートの一室から出ることを禁じられた子供達の、哀しい叫びが聞こえてきそうな言葉です。

確かに子供達は生まれてきたけれど、まだ社会的には生まれていなかったのです。子供が入れられたトランクは子宮の意味もあるのでしょう。アパートの一室も閉鎖空間ですからそうなのでしょう。

そして哀しいトランクは最後にも登場します。少し違った意味で。

彼らはどれだけ強く外の世界に憧れていたことでしょうか。誕生したがっていたことでしょうか。

飛行機が登場します。「飛翔」これは彼らの悲願です。

それに対して母親は、一人外の世界を満喫している存在でした。子供とはまったく対照的に。

いじめを受けた少女も登場します。

彼女もまた、学校という社会から受け入れられなかったのです。

ここで面白い事に気がつきました。

「学校に行きたい子供達と、行きたくない少女」が登場することです。

少女は最初、自分が世界で一番不幸だと思っていたのかもしれません。

でも、そうではなかったかもしれないと気づいたことでしょう。

少なくとも社会的に生まれていない子供達よりも恵まれていたのです。

この映画は哀しい映画で、涙もほろりとこぼれます。

でも、不思議と見終わった後に生きる力みたいなものが湧いてくるのでした。

私たちは社会という歯車に組み込まれている息苦しさもありますが、歯車の一員である幸せにも気づかせてくれました。

珠玉の作品です。

追記
2004/8/30 19:02 by 未登録ユーザさくらんぼ

映画の中の子供たちは、自分たちのせいではないけれど、社会から抜け落ちた生き方をしていました。母親も自由を満喫はしていましたが、母親の務めを放棄していました。女学生も、なぜだかいじめられ、学校からこぼれ落ちていました。この様に、主な登場人物は、皆それぞれの在るべきポジションから外れた生き方をしていたのです。

そして、スポット・ライトを当てられていたのは、子供たちと女学生でした。

なぜ、そこに焦点があてられていたのか、それは映画の前半、ハンバーガー・ショップで、長男が母親から「学校なんて行かなくてもいいの。学校に行かなくても偉くなった人なんて沢山いるじゃない」と説得されている事もヒントになる様に思います。学校について丁寧に、わざわざ語っています。

西部劇の名作映画「シェーン」には、銃の哲学についてシェーンが母親に語るシーンがありました。また銃のマナーについても語られていました。映画「シェーン」の裏テーマは、銃社会アメリカの「銃との正しい共存方法」について描かれていたのだと思いました。

ならば、この「誰も知らない」は親の育児問題がテーマかもしれませんが、裏には「学校・組織」がテーマとしてあるのではないでしょうか。

学級崩壊、登校拒否、フリーター問題など、組織から外れた生き方を見せる人たちが今、社会問題になっています。もちろん、それらのすべてが悪いと言っているわけではありませんが、テレビなどで特集番組が組まれている様な状況です。

この映画の裏テーマは、もしかしたらそんな人たちに向けて発信されたものではないでしょうか。「組織に属さない生き方のリスク。」監督にはそれを理屈ではなく、肌で感じてもらおうとの目論見があったのではと思うのです。

追記Ⅱ
2004/9/4 8:03 by 未登録ユーザさくらんぼ

このように、監督には親の批判は最大の目的ではなく、ただ子供たちだけで生活する状況を作り出す為に、事件をモチーフとして利用したのではないでしょうか。誰でもいずれは自立しなければなりませんから。

映画の冒頭、電車の中でスーツケースを持って深刻な顔をしている男女がいました。社会から「孤立した」二人です。つづいてアパートの大家さんに挨拶する母子が描かれます。これは社会との「関わり」について描かれていました。二つは対照的なシーンです。

コンビニが出てきました。レジの後ろでは、店長から新入り店員が袋の広げ方を教えてもらっていました。このシーンは2回ぐらい出てきましたので無意味ではないでしょう。「働くこと・学ぶこと」をさり気無く語っているように思います。

野球でしょうか。メンバーが足りないので見ていた長男に声がかかりました。「組織の一員」になる象徴的なシーンだと思います。

「孤立」していた子供たちは、最後には女学生を頼り、また「一人ぼっちの女学生」も子供らと友達になります。やはり人は一人では生きては行けないのでした。彼らさえも生きるためには「他人との関わり」を作らざるを得ませんでした。

ところで、さり気無いセリフには、意外な意味が込められている事があります。母との約束を破って公園で遊ぶ子供たち。その時子供の一人が「この木の下にはセミの幼虫が眠ってるんだよ。知ってる?」と言います。「知らない」と答える女学生。

「誰も知らない、セミの幼虫」は子供たち自身の暗喩だと思いました。

末娘が音の出る靴を選び、母を迎えに行くシーンがありました。「キュ、キュ」というあの音。禁じられた大きな音。隠れて暮らしていたストレスの反動でしょうか。それとも母に会える嬉しい気持ちの表現でしょうか。でも裏で語られていたのは「セミの鳴き声」だと思いました。末娘はほんの一瞬だけセミの様に生きたのです。

やがて短い人生を終えたセミは、高い木の上から落ちて土に返ります。夏の終わりに椅子で起きた末娘の悲劇を思い出します。監督はセミ一生と末娘の生き様を重ね合わせていたように思いました。

追記Ⅲ
2004/9/16 6:51 by 未登録ユーザさくらんぼ

映画の中に度々コンビニが出てきます。過去にテレビで特集番組がありましたが、一見気楽な雑貨店に見えるお店の経営には、実は大変なノウハウと努力が潜んでいるそうです。

コンビニに限らず私たちの高度な社会システムのほとんどは、社会の歯車の一枚となって働いている人たちの努力と貢献の賜物です。私たちは空気の様にそれを享受してはいますが。

確かに社会の歯車の一枚になることは不幸な点もありますが、あえて幸福な点を探したいと思います。この映画からは静かにそれを感じました。それから母親を憎むべき対象に描かなかったのは、映画の焦点が母親非難ではないからだと思いました。

もちろんこれらは私見で、映画の解釈の正解については他の映画同様に分かりません。

追記Ⅳ
2004/9/18 6:31 by 未登録ユーザさくらんぼ

この映画の登場人物の多くは他人との関わりが薄いのです。大人たちも、もう一歩子供たちの世界へ踏み込めば良いものを、踏み込まないもどかしさが感じられます。それがリアルといえばリアルなのですが、このあたりは意図した事であると何処かで読んだ気がします。

私はそれがモチーフだと思いました。母と子、周囲の大人と子供、主人公たちと友人たちなどに見られる希薄な関係は、主人公たちが社会から孤立している事へと集束して行くのです。

それから少女がカラオケでお金を稼いだエピソードは、少女の説明通りカラオケだけだったのかもしれないし、本当はそうではなかったのかもしれない。少なくとも少女にほのかな恋心の様なものを感じ始めていた少年には、汚れた行為に見えたんだと思います。その、多分少年にとって初めての感情をうまく処理できずショックを受けて走り出したんだと思いました。

私はこのカラオケ?のエピソードは「お金を稼ぐには社会と関わる必要がある」事の現実を教えるものだと思いました。そこに明るく健全な仕事ではなく、怪しさ?の有るものをあえて配置したことで、生きる事の厳しさを、より強調したかったのではないでしょうか。その様に感じました。

追記Ⅴ ( 時代背景という万華鏡 ) 
2011/8/3 13:20 by さくらんぼ

>・・・「組織に属さない生き方のリスク。」監督にはそれを理屈ではなく、肌で感じてもらおうとの目論見があったのではないかと思うのです。

映画は時代を映す鏡とか申しますが、当時の様なフリーター全盛期は、つまり正社員になることはそんなに難しくないのに、あえてフリーター生活を「気楽だから!」という理由で選択している人が多かった時代は、いつのまにか夢の様に過ぎ去ってしまいましたね。

あの浮かれていた当時に「組織に属さない生き方のリスク」を語るべく「誰も知らない子供たち」の姿を借りて描いたタイムリーな作品がこれでした。

実在の事件は、一部をモチーフとして拝借しただけで、映画の主題は子捨ての非難ではなかったのです。だから母は悪役に描かれていません。

今は時代背景がまったく逆になり、誰もが正社員になりたくて(組織の一員になりたくて)必死に就職活動をしても、なかなか夢が叶わない時代なりました。

そんな2011年という時代背景からこの映画を観ると、母が悪役に描かれていない分だけ、クールなホラー映画になりかねないという、想定外の味わいが生まれるようです。つくづく映画は時代背景とワンセットだという事を感しました。

ちなみに一人っ子政策で有名な某国には、どこかで聴いた話では、役所に隠れて二人目を産む人が少なくないそうです。当然に就学年齢に達しても就学案内は来ません。子供さんの幸を祈ります。

追記Ⅵ ( 姉妹作も傑作 )
2011/8/3 13:24 by さくらんぼ

>この映画は哀しい映画で、涙もほろりとこぼれます。でも、不思議と見終わった後に生きる力みたいなものが湧いてくるのでした。私たちは社会という歯車に組み込まれている息苦しさもありますが、歯車の一員である幸せにも気づかせてくれました。珠玉の作品です。

この映画を観た当時は私も歯車の一員として苦しんでいましたが、(それでも、君は幸せ者だよ!)という声が聞こえた気がして、確かに生きる力が沸いてきたのでした。

生きる力が沸いてくる、と言えば、2001映画「千と千尋の神隠し」を思い出します。両者とも大きな意味で、人と社会との関わりを描いていました。

映画「誰も知らない」が、究極の孤独である引きこもりの姿、その悲惨を描いていたとしたら、映画「千と千尋の神隠し」は、逆に、神の計らいで無理やり社会参加させられた子供の話です。

映画の中の、あんな職場は絶対イヤだと私も最初は感じましたが、だんだんと友達も出来て仕事にも慣れ、最後には離れがたい職場になっていくところが感動的でした。そして、それは、同時に千尋の成長でもあったのです。

また、こんな映画もありました。2006映画「嫌われ松子の一生」です。

こちらは、病気で家から一歩も出られない、かわいそうな妹と、元気すぎて自由奔放に生きる姉の物語でした。つまり映画「誰も知らない」と映画「千と千尋の神隠し」では別々に描いていた部分を、「嫌われ松子の一生」では同時に描いているのです。

映画「嫌われ松子の一生」で、最後に姉は妹の深い哀しみを悟るのです。本当に悲劇の人生を生きたのは、姉ではなく、家を出られない妹だったのです。むしろ姉は、波乱万丈の人生を送っても、人生を謳歌したという点では幸せ者だったのです。

今にして思えば、この様にまったく別物だと思っていた映画にも類似点が見つかるのでした。これも夏休みのせいでしょうね。

追記Ⅶ ( 2011を映した映画 ) 
2011/8/5 6:29 by さくらんぼ

それでは2011年を映した映画は何でしょうか。3.11以前と以後とでは違うのでしょうが、とりあえず3.11以前ということで考えて見ますと、思い当たるのが映画「八日目の蝉」です。

この映画「八日目の蝉」では、過去の幸せを忘れられない人たちが出てきます。その人たちも、ある意味、悟りを開いて現在の運命を甘受し、前向きに歩き出すのです。

大量生産、大量消費、あの高度経済成長期のバルブは爆ぜて夢と消え、夢よもう一度と頑張ってはみたけれど、もう、あのころの再来は難しいのかもしれません。それどころか2008年の経済ショックが駄目押しの様にやってきました。

そんな時代の空気を映しこんだのが映画「八日目の蝉」だったのかもしれません。私たちはここから過去の歪んだ栄光に戻るのではなく、バランスのとれた新しい何処かへ歩んでいくしかないのでしょう。


( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)


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