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色上戸

 香織里のおちょこが空になっていたので手を伸ばしてオレはガラスのとっくりから日本酒を継ぎ足した。アズマリキシという名前のお酒だと、カウンターの向こうで寿司を握る大将がさっき言っていた。壁に掲げられたボードには、東力士というそのお酒が栃木が産地だということが書いてある。この店では、男性と女性で出されるおちょこが違っていて、男性の客にはプレーンで透明なおちょこが、女性の客には色が散りばめられた華やかなおちょこが出される。香織里が手にしているおちょこは擦りガラスのような白く透き通るガラスで出来ていて、カラフルな花束とかフルーツとかを思わせるような色素が底の方に散りばめられていた。この店には知り合いに連れられて何度か来たことがあったが、自分のお金で来るのも、誰かを連れてくるのも初めてのことで、こうしてこの寿司屋のカウンター席に座っているということに、オレは内心では少しだけドキドキしていた。お酒を頼んだ時に一緒に出てきたもずく酢を箸で少しすくってくちに運ぶ。もずくの上にのっているおろし生姜が程よいアクセントになっていて、三杯酢のキリッとした酢の香りが引き立っている。じゃあその上田さんっていうひと、もうすぐ会社辞めちゃうのか。オレは香織里の話に相槌を打った。香織里はさっきから、アルバイト先の会社の上田さんという社員の人が、とんでもないミスをやらかしてからしばらく会社に来ていないのだ、という話をしていた。そうね、たぶん、辞めちゃうんじゃないかなぁ。そう言って香織里はくちにつけたガラスのおちょこをまたクイッと上に傾けた。香織里は二十五歳で、オレは二十六歳だが、オレも香織里も世間一般で言うところのフリーターのようなことをして暮らしていて、香織里はいちおう駆け出しのイラストレーターでもあったが、オレは何をすればいいのかいまだ決められないまま、ただなんとか日々を生き延びるようにして暮らしていた。この寿司屋に来たのは、香織里の描いたキャラクターが大手出版社のキャンペーンのプロモーションをするウェブサイトのオフィシャルキャラクターに採用されたことを祝うという名目だった。先週オレはある企業のプロモーションビデオの撮影にスタッフとして参加する仕事があって、それのギャラを現金でもらっていたので、寿司代の心配については、一応は安心だった。電話で予約するときに、あまり予算が潤沢ではないことは大将には伝えてあったので、そう高くなく握って貰える腹積もりでいられてはいるのだが、それでも、カウンターの寿司屋に誰かを連れてきて、寿司を奢る、というのが自分にはなんだかまだ分不相応なことのように思えて、妙に落ち着かなかった。食べ終わったもずく酢の皿が下げられて、洗った笹の葉が目の前に敷かれた。それが本当は笹の葉ではなくて違う葉っぱだったのではなかっただろうかとか、その葉っぱには何か正しい呼び名があったのではないか、というようなことが脳裏に浮かんだが、何も思い出せなかった。その職場の先輩の上田さんという人の話題はもう終わっていて、この先の仕事をどういうふうにしていけばいいのか悩んでいる、というようなことを香織里は話していた。香織里の目の下のあたりの皮膚がアルコールでほのかなピンク色に色づいている。ふたりで飲んでいる、とっくりのなかの東力士は半分くらいに減っていた。ディティールは少し違っているが、働き方で悩んでいるのはオレにしたって同じことで、どういう仕事を、どういう働き方でしていけばいいのか、というのはオレにとっても大きな悩みだった。いつまでも手当たり次第に目につく仕事をしていればいいというわけではないのはわかっていたし、そろそろ何らかの専門性を確立したいとは思っていたが、相変わらず、それが何なのかがまだわからない日々だった。香織里の場合は、オレとは違って、テーマやフィールドはもう決まっていてあとはどういう手法で具体的に進めていくのか、というのが課題だった。つやつやと瑞々しい輝く緑の葉っぱの上に、握り寿司が差し出された。まず出てきたのはヒラメだった。煮切りが刷毛で塗られているので醤油につけずにそのまま食べられる。歯ごたえのある身に縦に包丁が入っていて、シャリがほぐれるのに合わせてくちのなかで、魚のうま味が滲む。おいしい! 驚いたような表情で香織里は小さくそう言った。やばいね、これ。オレはうまさでニヤニヤしそうになるのを堪えながら何度か頷いた。とっくりの東力士は殆ど空になっていた。ガラス製のとっくりなので残っている量が容易にわかるようになっている。とっくりに手を伸ばす香織里の頬はさっきよりもピンクの色が強くなっていた。香織里は残っていたお酒をオレのおちょこ注ぎ、その後で自分のにも注いだ。お酒、次のお願いできますか。オレは大将に声をかけた。大将はオレに愛想よく返事をすると、ハツカメ、ピンでお願いします! と厨房の方に声を響かせた。静岡だって。壁のボードを見て、香織里がつぶやくように言う。初亀、と書くらしい。いまオレに口説かれているという自覚は香織里にはたぶん全く無いだろうし、傍から見ても、オレの立ち振舞とか発言とかが、口説いていると言えるような代物ではないのは自分でもわかっていた。でもそう思うと、なんだか情けなくなってきて、オレは意味もなく苦笑いしそうになった。ヤリたいとかそういう単純な動機で接しているわけではもちろんないし、今夜どうにかふたりの関係を進めようとか、そういうことを思っているわけでもなかったが、それでもオレは香織里のことが好きだったし、なんとかもうちょっと関係を進められたらいいのにな、とは思っていた。あ、こっちのほうが華やかな感じが好きかも。おちょこに注いだ初亀の感想を香織里が口にする。香織里の話題は、親戚のおばさんが最近色々と面倒で大変、という話に移っていた。お酒を飲むと顔が赤くなるひとのことを、色上戸というらしい。香織里の頬は、さらにもう一段、ピンクに色づいていた。中トロ、そのままでお召し上がりください。大将の声がして、つやつやと輝く中トロが出てきた。赤色の強い部分と、ピンク色に霜が光る部分とが、虹を思わせるなだらかなグラデーションになっている。その寿司をくちに運ぶと、醤油の香りとともに、ほぐれたシャリの上に暴力的なくらいのマグロのうま味が広がって、オレは息を飲んだ。そして、口説こうと思うこととか、口説こうとすることとか、そういうことのすべてが急に、とても浅はかで下らないことのように思えてきた。中トロの余韻に酔いながら、香織里の白い頬に広がるピンク色を見て、それがとても綺麗だと、オレは思った。(2018/01/09/00:29)



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