バランタイン
特別ではないことが特別、オレにとってはそんな蕎麦屋だった。飲食店というのはつくづく難しいもので、食べ物だけではなく、空間とか接遇とか、そういうものもお店の評価に大きく影響してくる。その店も、始めの頃は禁煙と公式ページにも書いてあったのがなんだかいつの間にかなし崩し的に喫煙可になっていたり、狭い店なので混んでいると入れなかったり、花番さんが機嫌が悪いのかちょっと怖かったり、客がいないと蕎麦職人がどっかに言ってしまってたりとか、とにかくいろいろとあったが、それでも、後になってみると、間違いなく、良いお店だった。初めて訪れた日のことを、今でも覚えている。もう二年以上も前のことだが、いつのまにか蕎麦屋ができていたことを知り、どんな店なのか、ワクワクしながら訪れた。ちょうど、自分のなかでも食べ物に対する意識が変わり始めていた時期で、味覚を研ぎ澄まそうと意識して暮らしていた頃だった。蕎麦についてはまだ今ほどは詳しくはなかったが、いろいろな蕎麦屋に足を運び、良い蕎麦というものがどういうものなのかを知ろうとしていた頃だった。そして、そのタイミングで訪れたその店で、当たり前のようにして、当たり前に出てきたせいろが、全てにおいて完璧だったのだ。正しい蕎麦というものがどういうものなのか、まだはっきりとはわかっていなかった頃だったが、この蕎麦は間違いなくいい蕎麦だ、なぜだかそう思った。季節は夏が終わった頃だった。暑くもなく、寒くもない、過ごしやすい時期だった。あの頃の、店のにおいを今でも覚えている。まだ開業してそう長くはなく、なんとなくフレッシュな雰囲気があった。蕎麦職人の与田さんも、店を閉めることになった頃に比べると、当たり前だが、ずいぶんと、やる気とかエネルギーとかに満ちていた気がする。とにかく、自宅の近所にこんな店があるということに、オレは飛び跳ねて喜びたいくらいだった。薬味の白ねぎ、わさび、繊細なのに強い風味と甘さのしっかりとした蕎麦、そして茹で加減、水の加減。それに、辛汁。全てが完璧だった。その日の蕎麦は、九割ちょいくらいかな、と与田さんは言っていたが、与田さんの蕎麦のなかで、オレが一番好きな粉加減の蕎麦だった。この店に来るまでのオレは、妙な言い方かもしれないが、蕎麦屋に困っていた、ような気がする。いろいろな蕎麦屋に行くようになり、美味しい蕎麦、そうではない蕎麦、いい蕎麦、悪い蕎麦、そういうものの見分けが少しだけつくようになった頃だった。しかし、行きつけと言いたくなるような蕎麦屋はまだなかった。美味しい蕎麦は食べたいが、この店だ、という決定的な店がまだなかったのだ。蕎麦屋なんていうものは、家の近所にちょっと美味しい店が一軒あればそれでいい、そんなものだと思う。それで、家の近所にこの店が出来たことで、オレの蕎麦に対する感覚はその後、大きく変わった。最高のスタンダード、そう言っても過言ではないかもしれない。季節とか、打つ人の気分とか体調とか、蕎麦の味というのはそういうものであっけないくらいに簡単にコロコロと変わってしまう。機械が工場で作っているわけじゃないんだし、別に当然のことだと思う。だから、厳密に言えば、蕎麦の味とか仕上がりにはムラがあることも多かった。ああ、今日はブツブツ切れやすい蕎麦なんだな、とか、ああ今日のつゆはちょっと寝かせが足りないんだろうな、とかそういうことを密かに思うことも多かったが、大きくハズれることはなかった。天ぷらも、牛すじ煮も、身欠き鰊も、おひたしも、細かく言えば揚げてる油の匂いがいつもと違うことがあったりとか、そういうこともあったりはしたが、基本的にいつも美味しかった。でも、一番は、辛汁だと思う。蕎麦を引き立て、蕎麦に引き立てられる、そういう辛汁に、他の店で出会ったことが、まだない。どこか物足りなかったり、なんだか甘すぎたり。他にも信頼できる蕎麦屋はいくつかあるが、蕎麦は良くても、つゆにかすかな違和感を拭いきれなく感じることが多い。与田さんは、オレが料理とか蕎麦を美味しいと伝えると、あたりめえだ、とか、オレを誰だと思ってんだ、とか、そう言っていつもカラえばりした。海老を届けに来る出入りの業者のにいちゃんをふざけ半分に馬鹿にしていびっていたりとか、ちょっとかっこ悪かった。でも、ジーパンにTシャツでスニーカーを履いて、蕎麦屋という形にハマらない与田さんスタイルがオレは好きだった。店のつくりも、およそ蕎麦屋だとは思えないような雰囲気だったが、それでも、蕎麦も料理も、しっかり一級だったから、そんなことはどうでもよかった。若そうにしていても与田さんはもう六十を越えていたし、考え方とかが、ちょっと古くさいなと思ったりすることもあったけど、美味しいは正義、だから、そういうのもべつにそれで良かった。でも、美味しいものを出しているだけではお店というのは続けられなくて、客はむしろ増えていたが、与田さんは去年末で店を閉じた。いろいろと大人の事情が絡んでいたみたいだし、オレはそういうところには深入りしたくないし、関係もないが、店がなくなってしまったことは心底残念だった。またそのうちにどっかで店やると思うけどな、と与田さんは言っていたし、いつかまた与田さんの蕎麦を食べることが出来る日は来るとは思うが、近所に良い蕎麦屋がある、という暮らしは無くなってしまった。与田さんは、遅い時間になると、いつも店でバランタインのファイネストを飲んでいた。それを真似してオレもバランタインを買うようになって、いまでも一番飲んでいるスコッチはバランタインだ。店の最終営業日に、与田さんに渡そうと思って買ったバランタインの十二年が、今オレのデスクの上にはある。時間が合わなくて渡せなかったのだが、べつに渡そうと思えば渡せただろうし、手紙を添えて置いておけばよかったのだが、どういうわけか、そのまま渡さずに持ち帰った。思えば、たぶん与田さんなりの愛情の表現なのかもしれないが、なんとなく、また馬鹿にされそうな気がして、渡すのをやめてしまったような気がする。十二年、と言えども、量販店で二千円も出せば買えてしまう。ファイネストは千円なので、約二倍の価格だが、贈答品と言える程の良いものでもない。家に持って帰るのがめんどくさいとか、べつに好きでバランタインを飲んでるわけじゃなくて店にあるから飲んでただけだとか、なんだよこんなの、とか言われそうな気がしたのかもしれない。今になって思えば、渡しておけばよかったな、と思うが、それでも、なんとなく、あの時は、ちょっとタイミングがズレて渡しそこねただけで、もう渡したいと思えなくなってしまった。バランタインの十二年は、ファイネストと比べるとまるで別物のようにまろやかな味わいで、ロックとかソーダ割りの方が合うファイネストに比べると、ストレートのほうが味わいが抑えられていて飲みやすいと個人的には思う。十二年は、水を加えると、香りが広がりすぎてしまうような気がする。もう食べられない蕎麦のことを思いながら、バランタインの十二年を、オレは今夜もちびちびとストレートで飲むのだろうと思う。(2018/01/22/04:55)
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