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東京の話

2017年9月、私の東京での生活が始まった。
来月でその生活もちょうど4年になるが、11月には名古屋に帰ることが決まっている。

東京。
その言葉は不思議な魔力を放っていた。

長渕剛の東京青春朝焼物語。
銀杏BOYZの東京。
きのこ帝国の東京。
くるりの東京。
踊ってばかりの国の東京。
最近だとGEZANの東京。

やはりこの街は、特別だった。

この狭い都市に1300万人超が暮らしているというのも驚きだし、そのほとんどが地方出身者であるというのだから、この街のアイデンティティというのがどこにあるのか疑問だったが、一歩裏路地に入れば、確かにその存在を感じた。

変わらないものもある。
それでもやはり、東京は変わり続けている。

東京のアイデンティティというのは、とても抽象的なものであるように思う。
街ごとの抽象的なイメージに人も金も集まり、抽象的な街を形成している。
私には、みんなふわふわ浮いているように見える。

それは失ってきた過去を孕んでいるし、なんならそれこそが東京を東京たらしめているように感じる。
変わり続けることで東京は東京になっている。

大抵の地方都市は変わらないことにアイデンティティを求めているし、変わるにしても過去と現在の共生を望んでいるように思う。
その気持ちはとてもわかるし、自分もそちら側の考えではある。

この時代においては変化とは強さだし、何よりも東京はその姿勢で日本を引っ張ってきたんじゃないだろうか。
実際自分も、そんな東京に憧れて上京した田舎者の一人だ。

変わらないと東京は生きていけない。
それはとても危うさを含んでいる。

しかしこれは全く否定の意味ではない。
全員が旅人のようで、ここで生きていくにしても、否応なしに変わっていく街を受け入れている。
というか、その街と個人との摩擦が生きている実感であり、その違和感が個人をさらに個人にする。
だから東京の人の個の力は強い、と思う。

でももちろん街の力、ひいては社会の力は絶大だから、飲み込まれる人も大勢いるし、逆に一切関せずの人もいる。

渋谷からそう遠くない銭湯に行くと、
そんな雑踏をものともせず、体感として東京を熟知しているおばあちゃんが鎮座している。

東京でも名古屋でも、結局はポカリスエットがクラシックなのだ。

東京こそ、カオスという言葉がどこよりも似合う。

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