見出し画像

雑記 25 / 若く、希望に満ち溢れて

つい最近まで、お花や季節のうつろいに全く興味を持っていなかった。
岐阜の片田舎に生まれ育った自分とって、自然とはただそこにあるだけの、退屈の源泉だった。

子どもが生まれるとその成長の目まぐるしさに、否が応でも時の流れやうつろい、変化に敏感になる。「今が一番かわいい」と言われ続けた日々があり、それが永遠に続くと思っていたらこまっしゃくれた小学生が出来上がっていた。その間に季節変化にも敏感になってきた。

今でも「今が一番かわいい」けれど、起きたら二歳くらいの全然喋れない頃に戻ってないかなとか、四歳の年はコロナで全然外に連れて行けなかったなとか、抱っこ紐最後に使ったのいつだっけとか色々と思い出してしまう。孫を溺愛する、とはそういうことなのかもしれない。自分が親だった時にうまくできなかったことをやり直したり、我が子とのことを思い出すタイミングなのかもしれない。

気がつけば風呂も一人で入るようになり、近所の角まで送らなくても勝手に登校するようになった。学校では仲良しの子もいれば気の合わない上級生なんかもいるみたいで、親の知らない社会の中で生きている。一個人として暮らし始めている。
自分が他人との距離感をうまく掴めないタイプの人間だったから、同じようなことになるんじゃないかと心配もするけれども、まぁ自分はどうにかなったし、正確には周りの皆様に支えられてどうにかなってる感じだし、きっと大丈夫だろうと信じるしかない。
愛情はたっぷりと抱いても、干渉が過ぎると子どもには呪いとなる。
転ばぬ先の杖が足枷に変わらないようにしないといけない。

彼は本を読むのも好きだし、立派な夢も持っている。きっとそれもそのうち変わるだろうけれども、何を目指すにしても、倫理的に問題のない範囲であればなんとでも応援する。仮に芸術家になりたいと言い出したらちょっと困ると同時に嬉しく思うかもしれない。
今も彼は彼の人生を生きている。自分に似たところが多くて感情移入が強くなりがちだけれども、彼の人生は彼のものだ。親のものではない。

彼は若く希望に満ち溢れている。それをすぐ側で眺めながら、こちらはこちらで好きにさせてもらう。おかげさまでお花や季節のうつろいに敏感となり、時間の希少性にも気づかされた。純粋な若さは過ぎ去った。親は親でやるべきことに全力で立ち向かい、好きなことを楽しくやってる姿を見せないといけない。

ということでたまの日曜休みに、しかも自分自身の誕生日に仲間と作った本を売りに行く父を許せ息子よ。

ということで文学フリマ東京にお越しの皆さまよろしくお願いします。

この記事が参加している募集

#文学フリマ

11,627件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?