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雑記 26 / 浪費と消費と

昔からお金が身につかない。
たぶんそういう星の下に生まれついている。
あれば使ってしまうし、間違いなく稼ぐより使う方が得意だ。貯めることは一番苦手だ。
不思議なことに、稼ぐのは得意だけれども使うのは不得意という人も世の中にはいるらしい。そんな方々に浪費の仕方を教えてお金を貰いたい。いや、アートピースを扱う小売業なんだからそれをすでに実践しているのかもしれない。
しかし自分程度のちまちまとしたお金の使い方ではスケールが小さい、研鑽が足りない。大きな浪費をするには稼がなければならない。本当の贅沢を手に入れるための資本が必要だ。ああ。

そういえば『暇と退屈の倫理学』で國分功一郎氏が「消費」と「浪費」の違いについて述べていた。「消費」は観念的な行為でリミットがなく、無限に欲望を増大させ続け、次から次へとその対象を変化させる。「浪費」は物の価値を十二分に享受して贅沢を味わうこと、身体と空間には制限があるから浪費には物理的なリミットがあり、同時に贅沢によって精神的豊かさを手に入れることが可能となる。人類は浪費によって社会と文化を発展させてきたけれども、消費社会への転向によって、無限の欲望と飢えに晒される、という話だったと思う。数年前に読んでうろ覚えで書いているけれど、大体こんな感じだったはずだ。


その意味で、僕は生まれながらの浪費家としての素質があったんだと思う。
もちろん消費社会に生きているからそのギャップに苦しめられる瞬間もあったり、あるいは自分を満たしてくれるような芸術を消費してしまう時期もあった。サブスクで音楽を漁るのに疲れてしまったのもそういう性向だからだろう。

音楽にのめり込むことで思春期が始まって、そして大学生の頃はバンドもやっていた。音楽が好きでバンドをやっているととにかくお金がなくなる。本当にお金がなかった。社会人になってもお金は貯まらず、最初に勤めた会社を辞めて家業を手伝うことでさらに無くなった。
おかげさまで今の仕事を勤める中で生活状況はじわじわと改善され、おかげさまで妻子を養って暮らしているけれど。

「もし音楽にハマらなかったら」「あの時音楽以外にお金と時間を使っていれば」「哲学だの芸術だの言わず、経済学部とかに進んでいれば」などという思いが、ずっとチラチラと頭にあった。いわゆる順風満帆で波風立たない人生を歩むことだって可能だったはず、と思うこともあった。

そういう「もしも」が人生にはたくさんあって、年齢を重ねるごとにそのかつてあった選択肢の多さを知り、残された可能性の収束に不安を覚える。今この瞬間もそうした思いはゼロではない。

けれど、ここ最近の芸術体験、奇跡的な出来事の連続とそこからもらった感動を潜り抜けたことで、その呪いも解けたように思う。
むしろ、あの出来事たちにこれだけの感動と喜びを感じられたのは、自分がそのための知識や感受性を育み続けたおかげだからだと、これまでに積み上げてきた物事に感謝することができた。それを受け止めることを可能にした過去の自分自身を褒めてやりたい。自分は知識を溜め込むばかりで受動的な、空虚な人間だと思って生きてきたのは一つの呪いだったけれども、ようやく少し楽になった。
より良い浪費家を目指し、そして素晴らしき浪費の世界を紡ぐ。
芸術によって贅沢に生きられる社会を。

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