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「なり」と「ころ」に関するメモ / 空間と時間

父(陶工)に昔「焼き物を見る時には『なり』と『ころ』を見ろ」と言われた。それはなんなのだ、どういうことなのかと尋ねても「なりはなりや。ころはころや」と言うばかりなので当時はとりあえずそういうものとして受け止めた。
具体的な説明はなかったけれども、その時の会話のニュアンスや普段の父の言動から言わんとすることはなんとなく想像できた。会話の良いところだ。それからというもの、自分なりに「なり」と「ころ」について意識しながら、考えながらいろんなものに触れてきた。

今改めて考えてみる。
「なり」とは成り立ちの成り、あるいは形。「ころ」は頃合いの頃。作品に関係する時間感覚。
形と間。空間と時間。カントが人間の認識能力の前提として設定した形式。我々は空間と時間という「うつわ」無しに現象を知覚することはできない。
「なり」と「ころ」は最終的に出来上がった物において調和している。その調和のあり方が、物の良し悪しを指し示す。

作品が置かれる空間との関係性によって生じる形の意味と、手に取る人間との関係性で現れる形の意味は異なる。同じ形であっても別の意味が発生する。当然、置かれる空間が変われば、その形に伴う意味は変化する。そして全体の形はディテール同士の関係性によって成立する。

時間。作品にまつわる時間には様々なレイヤーがある。作者の視線にインストールされた時間感覚。作品そのものに伴う時間感覚。鑑賞者の感じ取る時間。そしてその作品が存在し続ける限りにおいて持続する未来の時間。
作り手は素材の状態からスタートして最終的な成り立ちまでを見ている。そのプロセスを知っている。陶芸家であれば土の状態から、焼かれて今目の前にある状態の全ての時間を見ている。そこに正しい頃合いがあることを知っている。そのプロセスにおいて土の乾燥の正しいタイミング、焼成の時間、絵付けの間、いろんな時間がある。
鑑賞者である我々はその最終的に成立した作品の姿から、そこに至るまでの時間について想像を巡らせる。
そして作品そのものが持つ、時間に対する強度。物理的な強度だけではなく、鑑賞に耐えうる時間的な強度。鑑賞者を長く引き留めて見つめさせる時間的強度。作品にまつわる時間についてはまだまだ語るべきことがある。切り口は限りない。

そして、その「なり」と「ころ」の調和によって作品の空間全体に対する支配力が生じる。ひとつの作品が持つ空間支配力の大きさは、作品の物理的な大きさと必ずしも比例するわけでもない。

「なり」と「ころ」について、おそらくは特に「ころ」からスタートしてその概念を捉え直すことが必要だ。そうすることで鑑賞の仕方を新しい切り口で言語化できるかもしれない。焼き物だけに限らない、造形芸術の鑑賞方法として。

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