見出し画像

春雷やたわわに満ちる美(エロス)かな

春雷。突然、雷が鳴って目覚めた。映画『遠雷』を思い出したのは、映画の理屈よりも石田えりの裸(おっぱい)の存在感だった。雷に撃たれるようなとは、そんな感じか。美の概念に近いのかもしれない。エロスだよな。そこから生命の営みが始まる。春雷はまさにそのような目覚めなのかもしれない。

春雷やたわわに満ちる美(エロス)かな  宿仮 

-

昨日は引きこもってしまったな。オマル・ハイヤーム『ルバーイヤート(四行詩)』を読んで、高柳重信の多行俳句から四行詩にできないものかと考えていた。高柳重信の方法は現代詩としては興味深いのだが、俳句かと言われると考えてしまう。やっぱ俳句や短歌は墓標だという考えが魅力的なんだと気がついた。芭蕉の蕉風ってそんな感じだと思った。俳句レッスンで自身の俳句がすこしづつ見えてきたようだ。

『ルバーイヤート』は神秘主義の詩だと言われるが、無神論で世界の不条理さにつかれると神秘主義になるのかもしれない。論理で説明できないから、理想とする世界(神がいる)あり、神がいない(偽の神というとグノーシスだが)世界の二元論なのか?それも心という一つの世界だと思うが。ただそれに対置して、自然という世界がある。スピノザはそれを神と言ったというのだが、それでもいいかな。ただやはり無神論なのだ。そこは大江健三郎のように無神論的だけど祈らずにはいられない言葉みたいな。言葉は欠損なんだよな。概念とも言うけど。

具体的な『ルバーイヤート』の作り方はわからないので、とりあえず高柳重信の多行俳句を四行詩にしていく。高柳重信もヴァレリーとか象徴とか言ったりするのは神秘主義めいている。俳句の俗世界から抜け出しているんだよな。俳句はもっと俗っぽくなくてはいけないと思うのは、あまりにも高尚だと俳句じゃなくてもいいのにと気がしてくるのだった。

49
地表の土砂のひとつひとつの粒子の、
かつては、輝く陽の君の頬、金星の美女の額であった。
そでにかかる砂塵をやさしく払うがよい、
それもまた、はかない女(ひと)の額であった。

オマル・ハイヤーム/ 訳岡田恵美子『ルバーイヤート』

砂塵舞う
彼方の幻
春雷に撃たれ
目覚める    宿仮

「短歌レッスン」で『現代にとって短歌とは何か』平出隆「拘束・リズム・散文」を読む。現代詩人の定形論だが、その昔、定形の短歌や俳句に対して自由詩と言っていたのは定形にこだわらなかったからだ。ただその枷をはずして本当に自由に表現できるのかというそうでもないと言う。自由詩には自由詩なりの枷があるのだ。それは現代性ということなのか?今では現代詩と呼ばれていたりする。短歌でも俳句でも現代のものであるのに、なにゆえ詩だけがそうなのか?やっぱそこにモダニズムの問題があるのではないか?

「三種の詩器」という言葉があるという。「詩」「俳句」「短歌」の敷居が語られて、それらの断絶が言われる。吉本隆明はその断絶を、単なる差異ではなく近代の断層(モダニズム問題か?)と見た。このへんは「言美」とか詩論に詳しいと思うのだが忘れてしまった。日本人論でもあるのかな?これは課題ということで先に進む。

映画はボブ・マーリーの映画が見られなかったので、Amazon Primeで自宅映画館。ボブ・マーリーで検索したらジャマイカのギャングの映画がヒットしたので、それを途中まで観ていたがつまらなくて途中で寝てしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?