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「私の代わりはいくらでもいる」、そう姫たちが叫び始めた

『窯変 源氏物語〈11〉 雲隠 匂宮 紅梅 竹河 橋姫』橋本治 (中公文庫)

女の作った物語の中に閉じ込められた男と、男の作った時代の中に閉じ込められた女―光源氏と紫式部。虚は実となり、実は虚を紡ぐ。本書は、物語を書く女の物語として、改めて始められる。
目次
雲隠
匂宮
紅梅
竹河
橋姫

『窯変 源氏物語』を最初に読んだときに光源氏の一人称で驚いたのだが死後はどうすんだろうと興味があったが「雲隠」の紫式部との入れ替えが見事過ぎた。それまでの光源氏の視点(男目線)から紫式部(女房文学、第三者としての三人称になっていくのだが、女の視線は物語を包み込むような母の視点だと思う)。それまではけっこう政治的に語られていくたのだが、その前章(原作に合わすなら前帖)での光源氏の後悔は、紫上の気持ちと通じ得なかった愛の敗北者であり、また息子世代との感性の違いは光源氏の退歩を余儀なくされたのだ。

橋本治は単なる翻訳ではなくて『源氏物語』の批評としての小説になっている。モダンなのが「ウェイリー訳」なら(イギリスでの翻訳はモダン文学として英帝国の文化搾取であり、「オリエンタリズム」の文脈で読めるかもしれない)、『窯変 源氏物語』はポストモダン小説。それを明確にしめしているのだが、本来書かれることがなかった光源氏の死「雲隠」であり、それは書かないことで偶像(ヒーロー)の永遠性を担保したのであり、敗者とはならなかった。

その後の匂宮三帖(匂宮 紅梅 竹河)は、なんで大君と中君で混乱するように書いたのかと思っていたのだが、大君も中君も娘の名前ではなく役柄とも言えない生まれた順序にしか過ぎないのだ。その中で大君を嫁がせ、中君も嫁がせることによって、父は権力を手にしていくのだ。それは光源氏の娘の在り方でも明らかにされたことだった。娘は政策の道具とされ娘の感情など眼中にないのだ。その最大の不幸が女三宮(三番目の宮という順列)で、それは光源氏に対する謀反であり恋愛の反乱なのかなと。つまり女たちは「私の代わりはいくらでもいる」、ということに気付いたのかもしれない。この帖以降は、形代(身代わり)がテーマとなっていく。それはエヴァンゲリオンの綾波レイと同じ立場であった。このことからも『窯変 源氏物語』はそれまでの『源氏物語』とは違う様相になっていくのだ。「ウェイリー版」が姫の序列(大・中)ではなく役柄で呼んでいたのはそのせいかと思う。つまり大君、中君は、姫一号、姫二号というのと代わりがないのだった。

それは光源氏の末裔の男たち匂宮、薫の色好みの相手にしか過ぎないのだ。大君が消えれば中君がその役割を果たしていくことに他ならないのだから。宇治十帖の「橋姫」はそのつなぎにしかならない宇治の姫(八宮は光源氏の弟で薫の叔父さんでもあったのだ、突然八番目の弟の登場も驚かされる)の物語であり、権力を握った男の兄弟意外は俗僧のように隠遁するしかなかったのである。


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