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終演は雨、黄砂混じりの鯉のぼり

雨の鯉のぼり。桜が咲くと一年のスピードが上がるな。もう鯉のぼりの季節かと思ったら4月も後半だった。今年は桜が咲くのも4月だったから例年以上に時間の進み方が早いような気がする。もう穀雨の句も詠んでしまったし。俳句をやっていると季節に敏感になるというか、季語に敏感に反応してしまい、例えば二十四節句とかあるのだが、西暦カレンダーよりも頭はそっちの方に行ってしまう。これは中国の四季の分類法を日本が国家成立の頃に学んだということであるようだ。時間を支配をするものが権力を握る。タイム・イズ・マネーの資本論というようにこの時間が曲者だった。

時間を意識すると精神的に追い詰められていくというか、精神病的になるのは、木村敏『自己と時間』を読んで納得したのだった。それは時間という公的な時間と人間の中にある体内時計のような自然時間のズレがあるということだった。四季の話に戻ると例えば日本の中央集権化以前は田植えの春しか意識していなかったとか。それは労働の時間であり、貴族が遊び呆けていた時間は中国から来た四季という文化であったということなのだ。その伝統が和歌とか俳句にあるということだった。

なんでもかんでも中国とかアメリカとか独自の文化は混血文化なんだろうけど、感情的なものに左右されると思ったのは昨日の映画を見て、これは中国マンセーの映画だろうと思ったのだが、そこを突っ込む人はあまりいない。自分も中国の揚子江の大自然の映像に感動したのだが、それは氷山の一滴から生まれる大運河というストーリーがちょっと違うんではないかと。確かに揚子江は中国文化の中心であるかもしれないが、もう一つ中国には黄河という異民族との攻防の文化もあり、黄河と揚子江でも文明がそれぞれ別に発達し中国という多民族国家になったのだ。揚子江でもその源がチベットであったように。ただそのチベットの問題はこの映画では見事に中国化されてしまったと感じたのだ。

揚子江と書いてしまったが「長江」だった。このへんも変化していた。

チベット族の可愛い女の子が大都会の上海を知って民宿経営の夢を持つのだが、それが成功して金持ちになる。映画もそんな一攫千金ドリームのような作りとなっていた。激動の中国の10年は明暗2つの側面があると思うが、映画が暗い部分を撮らなかったというわけではなく、明のストーリーで成り立つ映画になっていた。その陰の部分も明を引き立たせているというような。だからこの映画を見て中国マンセーになるのもいいが、もっと考えて見て欲しいと思ってしまうのだ。それは氷山の一滴がやがて大きな河となっていく大河ドラマは気持ちいい物語なのだ。

そんなことを微妙な気持ちになりながら外にでたら雨が降っていた。この雨も横浜の汚いドブ川を流れて、桜の花びらと共に海に流れていく。そんな日常。中国の大河物語にせめて対抗する一句を。

終演は雨、黄砂混じりの鯉のぼり  宿仮

あと文化面で女性が支配する通い婚の村があったのだが、それは『源氏物語』を思い出せた。光源氏に対するものとして、母性的な母の力があるのだが、日本が中央集権化する前の豪族らの社会は母系社会だった。その残像が『源氏物語』にも残っているのだ。それを中央集権化させていくのが天皇であり、光源氏もその嫡子であるが執政という貴族文化になっていく。そして、やがてそれも武士の時代と共に崩壊し、そのころの厭世的な仏教思想(末法思想)が色濃くなっていく。というのが吉本隆明『源氏物語論』かな。強引に読書に引き付けたけど。

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