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シン・短歌レッス60
今日の一句
紫陽花はいつ撮っても紫陽花だ。毎年同じような写真を撮っているような。俳句でいう月並みというやつですか?紫陽花も桜と共に人気ある俳句のことが多いと思うが、私も毎年のように俳句も作っているような気がする。
いたずらにみぞれて青く紫陽花は青を閉じ込め砕けるままに
去年「うたの日」で作った短歌だった。なかなかいいではないか。ただ「みぞれ」じゃないな「しぐれ」だろうな。
いたずらにしぐれて青く紫陽花は靑を閉じ込めさけるままに
紫陽花や学たちのブルースの朝
句会では無得点だった。学を額紫陽花にかけたのだ。わかりにくいということだった。改作すると。
ブルースや額紫陽花の青い朝
これもわかりにくいな。俳句では掛詞は使えないのか?短歌にすると。
月曜のうつむく朝の制服や額紫陽花や青のブルース
いまいちか?さらに以前の句。
紫陽花やブルームズデイ七変化
これはジョイスの「ユリシーズの日(6月16日)」とかけたんだよな。七変化が紫陽花のことだから、最初の紫陽花はいらないんだよな。
「ユリシーズ」ブルームズ・デイ七変化
ブルームズ・デイが説明的か?カタカナ語は避けるべきか?今日の一句。
紫陽花や縄文杉の下で咲く
巨木になれない紫陽花と花が目立たない縄文杉の共存する姿を描いた。ちょっとわかりにくいか?
最初に書いた文章は削除してしまって出来上がる過程がいろいろあったのだが思い出せない。
そうだ。「俳句ポスト」も最近取れないんだよな。また初級からやり直すか。『夏井いつきの俳句道場』借りてきた。
「麦秋」終わってしまった。せっかく考えたのに。
麦秋やマルチバースの近未来
すこしだけ未来ということです。結局前回はパスした。今回は「蜘蛛」か。これはいつか作ったことがあった。それを出すか?
「うたの日」
今日(5/24)の本歌。
これは難しい。参議篁(さんぎたかむら。802~852)が島流しにあったときの歌。隠岐の島は皇族や貴族などの身分が高い者が流される島だったそうな。島流しにも身分制度があったのか?
「うたの日」のお題は「暇」
わたの原隠岐の島には名歌人ひとにはつげよ参議篁
いまいちだな。現在が詠み込まれていない。本歌のパロディにしか過ぎない。それより「暇」がなかった。休暇にしようと思ったのがいれられなかった。
休暇日の隠岐の島にはわたの原ひとには告げよ参議篁
こんなもんか。「なら 」では。
わたの原隠岐の島なら後鳥羽院ひとには告げよ参議篁
後鳥羽院で収まるかと思ったがやはり参議篁を読み込みたかった。「来」では。
わたの原未来に告げよ後鳥羽院隠岐の島なら参議篁
これは先の歌を踏まえたものだった。こっちのほうがいいか。というか参議篁の結句が決まるんだよな。
わたの原隠岐の島には名歌人暇なら告げよ参議篁
これに決めた。今日はパロディ短歌だった。♪3つ。まあ、そんなもんだろう。
在原業平の和歌
![](https://assets.st-note.com/img/1684868914969-OGtBkS5IFT.png)
起きもせず寝もせで夜を明かしては春のものとながめ暮らしつ 在原業平
業平の和歌はやはりいい。これは『古今集・恋』なのだが叶わぬ恋だという。『伊勢物語』では後朝の歌として詠まれるのだが、「ては」が一度切りではなく何度でもという意味だそうだ。だから『伊勢物語』は間違っているという。「ながめ」は「長雨」と「眺め」の掛詞。折口信夫『伊勢物語私記』によれば、長雨の降る季節は物忌で男女は逢うことを「ながめ忌み」と言って逢えなかった。小野小町の歌もその例だという。
花の色はうつりけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに 小野小町
藤原定家の和歌
46来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
これ『百人一首』の歌なんだ。記憶に無かった。定家自分で自選したんだから、そうとう自信があるんだろうな。「内裏歌合」で判者は定家自身で天皇の歌を差し置いて自分の歌を勝ちにしている。定家五十五歳の作。
本歌は聖武天皇が播磨国印南野(いなみの)に行幸したときに宮廷歌人笠金村の長歌だった。対岸にいる男が女に逢えないで悲しんでいる歌で、定家は逆に女から男を恋ふる歌。
ジリジリと燃える海藻のイメージがいいという。定家はこういう物語の中に入り込んでしまう歌だ。そこが好きなのかもしれない。
名寸隅(なきすみ)の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海人(あまをとめ) ありとは聞けど 見に行ゆかむ よしのなければ ますらをの 心はなしに 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて たもとほり 我れはぞ恋ふる 船楫(ふねかぢ)をなみ 笠金村
47道のべの野原の柳したもえぬあはれ嘆きの煙くらべに
順徳天皇の内裏歌合での一首。この歌合で後鳥羽院の怒りを買い出入り禁止になっていた。理由は書かれてないが、たぶんまた判者で自分を勝ちにしたんだと思う。天皇を差し置いてという感じではないかと思う。題詠で「野原柳」。下葉が燃えるというのは下剋上と捉えられたのではないのか?そうか実情はこの歌合は母の死で欠席して、この歌を提出したから忌みの歌とされたようだ。この後に承久の乱があり後鳥羽院は隠岐に島流しになったのだ。なんかいわくつきの歌だった。
一節には左遷された菅原道真の歌になぞらえたので後鳥羽院が当てつけだと思ったという。
夕されば野にも山にも立つ煙嘆きよりこそ燃えまさりけれ 藤原道真
道のべの朽ち木の柳春くればあはれ昔としのばれぞする 藤原道真
政治的に後鳥羽院と定家の間に何かあったと思わざる得ない。
48しぐれつつ袖だにほさぬ秋の日にさこそ御室(みむろ)の山はそむらめ
承久の乱以後、定家は出世しているのでやはり政治的動きがあったと見るべきだろう。そして、この時に和歌の世界でも頂点に登りつめ、『新勅撰和歌集』は単独の選者として君臨していた。そして藤原道家の「関白左大臣家百首」での歌だった(すでに定家71歳)。
(本歌)
うらみわびほさぬ袖にあるものを恋にくちなん名こそをしけれ 相模
定家の「袖だにほさぬ」が相模の「ほさぬ袖」からの連想であるとするのだ。相模は恋の涙だが、定家はしぐれの自然現象で、むしろ後句は山紅葉のことを詠っているのだ。達観したもの(精神)が感じられるような。
49ももしきのとのへを出づるよひよひは待たぬにむかふ山の端(は)の月
「ももしきの」は爺さんが履いている下着ではなかった。「大宮」や「内」にかかる枕詞で内裏御所を指している。何気ない日常だが宮中勤めのプライドが伺える歌だった。「関白左大臣家百首」だから左大臣のヨイショもありそう。定家の官僚としての一面が出た歌だという。月は定家自身であるという。
50たらちねのおよばず遠きあと過ぎて道をきはむる和歌の浦人
「たらちね」は母の枕詞だが、ここは父を指すという。ということは藤原俊成を超えたという自身(自信)の歌だ。なるほど塚本邦雄が嫌うのはこのへんにあるのかもしれない。『明月記』はここまで登りつめる前のことだったのだ。天皇の政治から武士の政治へとしたたかに渡り歩いた歌人だったのだ。和歌の上でも源実朝の師であった。「成り上がり歌人」だった。
山頭火の自由律
秋風の石を拾ふ
まつたく雲がない笠をぬぎ
雨だれの音も年とつた
波音遠くなり近くなり余命いくばくぞ
年とれば故郷こひしいつくつくぼうし
あるひは乞うことをやめ山を観てゐる
笠も漏りだしたか
安か安か寒か寒か雪雪
うしろすがたがしぐれていくか
つげ義春『無能の人』だな。つげ義春が影響を受けたのだろうな。
「雲がない」なら暑いだろうに。秋の阿蘇で撮った写真に笠を脱いだのがあるそうだ。笠を脱いで大空の下涼んでいたのかもしれない。
そういえば太田裕美「雨だれ」が好きだったんだ。天使の人かと思っていた。今は年取っただろうが。
山頭火の年取った句三句。山頭火は「ころり往生」という旅の行き倒れみたいなものを願って漂泊している部分がある。今の世の中でも「ころり往生」できたらいいと思ってしまう。そのあこがれが山頭火の自由律なんだよな。
笠も漏りだしたか
これが詩になるなんて山頭火以外にないだろう。作品じたいよりも作家性を観ているのか?山頭火の場合、個々の自由律よりもその歩みみたいな全体性を読むことだから、短詩だとは言えないような気がする。
安か安か寒か寒か雪雪
それでこれだもんな。やられてしまう。
俳句レッスン
夏井いつき『俳句道場』を読む。最初の孫俳句を否定しておきながら孫俳句の薦め。なんだこりゃ。夏井いつきはそんなところがある。凡人俳句を否定しながが、皮一枚で名句になるような。それがわかれば苦労はないのだが。夏井いつきはそんなに好きじゃないのが駄目なのか?
「俳句ポスト」。中級も取れなくなったから初級からやり直すことに。色とか音とか匂いとか言うけど、それを表現するのが難しいんだよな。分かってるわいとなるのだった。凡人と名人の差異は繊細な部分に現れるから、結局はこういう本はビジネスなんだと思ってしまう。それで食っているのだし。だから本当のポイントはなかなか掴めない。せいぜい中級止まりなんだと。ぼやいてしまった。
この本を読んで劇的に俳句が上手くなった人はいるのかな。だってこれは散々言われていることだし、そういう月並みをこなしていくということなのか?そこを超えるのに四苦八苦しているのだと思う。それか日常詠では、そんな足枷はいらないと。山頭火のように毎日作って捨てていけばいいのだと思う。
今日の一句。
夏ならば夏井いつき今でしょう
相変わらず駄句だった。CMとかで使い古されたコトバはいけないんだよな。わかっているけどやめられん。
本歌取り映画短歌
今日のお題。『ビリー・ザ・キッド』
『百人一首』
天津風荒野に響く
銃声は
早撃ちキッド刹那とどめむ
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