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「ミソジニー」は三十路嫌いではなかった

『女ぎらい』上野千鶴子 (朝日文庫)

ミソジニーとは、男にとっては「女性嫌悪」、女にとっては「自己嫌悪」。皇室、DV、東電OL、援交など、男社会に潜むミソジニーの核心を上野千鶴子が具体例をもとに縦横に分析する。文庫化に際し、「セクハラ」と「こじらせ女子」の2本の論考を新たに収録。

出版社情報

「ミソジニー」も最初意味を知る前は「三十路」のことかと思っていたほど、この手の話題に疎かったのだが、正月のフェミニズム特集(ラジオとTVで上野千鶴子が出ていた)から興味を持って今日に到る。この本も1月頃予約していたのだが今頃になってしまった。

「ミソジニー」は女性嫌悪のことだが、それは男尊女卑の女性蔑視から来る。セックスについて、「男は所有し、女は関係性を求める」と上野千鶴子は主張する。男のセックスは所有という女を支配することで、それは繁殖の為には正妻を求め、快楽のためには娼婦(愛人)を求める。それはよく考えるとあるのかもしれない。

女はセックスに関係性を求めるというのが理解できないのだろうな。それはセックスの後に付随するものだと思っていた。もともと吉本信者でもあったから、恋愛は対幻想であり恋人同士、愛を夢見るファンタジーなのだと思っていた。そこに関係性はフィクションでしか存在しない。

「ミソジニー」ということはないと思ったが上野の論理だとほとんどの男は「ミソジニー」ということになる。それは家父長制の元で結婚して、家庭を築くことが他の女を好きにならないこと、妻を所有して子供を育てることで家父長制を再生産していくことだからである。むしろこの家父長制に問題があったのは父嫌いだったからでエディプス・コンプレックスに失敗したのだと思っていた。

ただそこに母の共犯性があると思えるのは母が絶えず愛を語っていたからだ。それが不思議だった。そこに(家庭に)愛なんてないと思ったのだ。それで「男は所有し、女は関係性を求める」というコトバがしっくりしてきたのだ。

女はペニスのない男として(母親の胎内に置いてきたという)不完全な人間だと把握される。それを回復させるのは産む機械として、家父長制を再生産させるシステムの中で娼婦である(夫に近づく他者の女)女を憎み、夫だけに従事する。おんな同士憎み合うのは、そういうことなのだと思うのだがセックス関係がないシフターフッド的な関係が最近出てきているのは上野千鶴子の世代ではあり得ないことだという。

何故ならそれは家父長制の邪魔になるからだ。ただミソジニーが強くなれば強くなるほど、シスターフッド的関係は出来てくるのかもしれない。桐野夏生の女性同士が共同して男を殺す小説がヒットするのは最近の傾向なのだという。

それまでは林真理子の他の女をねたみ、そがみ(憎しみ)、ひがみ(自己嫌悪)を持ち他者として女を見下す文学があったのだという。それは女を降りたポジションから、地位のある女性を排斥(落とし込める)やり方は世間にも受けたからだ。男の金と地位と見た目という三高は、裏返せばその位置にいられるほどこの社会では安定したポジションを得られるからであり、結婚、出産という再生産はそれに見合うものなのだ。

しかしそんな男は限りあるので、女性は不満が募るようになっていく。そのときに承認欲求として、娼婦としてのセックスを見出していったというのが「東電OL事件」なのだという。ちょうど雇用機会均等法が出来て、総合職では差別なく男のように活躍できるはずだったのだが、そういう社会ではなかった。会社はいまだにそういう女性を必要としていなかったのだ。その解釈は興味深い。

角田光代が出てきたときに林真理子は今までとは違った女性作家だと感じたという。それがシフターフッドや男とのセックス抜きの関係だったというのだ。そんなのはあり得ないのは、家父長制社会では彼女らのポジションはないからである。それがフェミニズムの広がりとしてあるのかと思うと頷ける。

男同士の関係、それはホモフォビア(同性愛嫌悪)はホモソーシャル(同質的)な社会に取って有効であり、彼らはゲイを憎む。それはゲイがセックスの役割を入れ替えるからだ。所有するのではなしに、関係性として愛(ペニス)を受け入れる。それは隷属(主従)関係からは外れたものだからだという。

そうした性(エロス)の関係性は文化的に作り出されるものでそれは近代に始まったという。エロスは文化装置として組み込まれていくのだ。それは権力のエロス化という家父長制を保守する役割があるからだという。処女の妻に性的な快楽を教えるのは夫であり、他の男との関係を持つならばそれは不倫(倫理に反する)のだ。しかし男の不倫はある部分許されてきたのだ。それは文化としてセックスを他の女に求めるのは金、地位、身なりを保証するものとしてあったからなのである(女を娼婦や聖女にする文学)。

女は偽の男になることで地位が保証され、例えば制服組という職業の中で女性蔑視になっていく。日本の政治的状況で女性議員が増えないのはミソジニーにあったのだ。それは男もそうだが女もペニスを持たない男として振る舞うことで女性を蹴落としていく。ジェンダーの権力の非対称性は文化の力によって強化されていく。

自己嫌悪や自己蔑視という最近の風潮はその歪である。それらを抱えた者同士が「シスターフッド」という連帯を求めてのは当然だとして、男がそこにセックス抜きの関係を築けるのかが問題だ。セックスするとまた所有の欲望に憑かれるからだ。それは文化装置として、そう教育されるからだという。「こじらせ女子」は女性性を自己蔑視することでリストカットや人間関係を複雑に捉える。最近はそういう女子を卒業して、叩く側に回る成熟した女(林真理子の成功パターン)という存在も出てくるのはビジネスの問題なのだろうか?




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