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やって来ないゴドーを待つ我々である

『ゴドーを待ちながら 』サミュエル ベケット (著), 安堂 信也 (翻訳), 高橋 康也 (翻訳)(白水Uブックス)

「『ゴドー』に接して、人はむしょうにおしゃべりになりたがっている自分を見出す。[…]無数の解釈が生まれ、すれちがい、ゆらめき、消尽されてゆく、その過程がまさにこの作品を観たり読んだりする経験の実体にちがいないのだ。[…]「ゴドーを待つ」という、あるようなないような枠組(大いなる物語)は、過去と未来のあいだに宙吊りにされたこの現在あるいは現代の瞬間を生き生きとさせるための仕掛けにすぎないのかもしれない。」(本書「解題」より)

田舎道。一本の木。夕暮れ。エストラゴンとヴラジーミルという二人組のホームレスが、救済者・ゴドーを待ちながら、ひまつぶしに興じている──。不条理演劇の代名詞にして最高傑作、待望のペーパーバック化!

ヴラジーミルとエストラゴンがゴドーを待っているが来ないからその間のおしゃべりで間を埋める戯曲。途中でポッツォと召使(奴隷)のラッキーの見世物が始まるが暴力的なポッツォと不幸なラッキーを観ていても何もしないのか出来ないのか。

舞台はTV(あるいはネット)の向こう側の出来事。観客は死骸ども。特に意味があるわけではなく繰り返される日常会話。そして忘却。消尽するもの。声は届かない。届いても聞いていない。ツイッターのようだ。今のこの世界が「ゴドーを待ちながら」なのか?

ソンタグがボスニア紛争のときにこの劇をやっていたと雑誌に載た。その状態が「ゴドーを待ちながら」。見てみないふりする健忘症なのか、ただ死を待つ途上なのか。そのときに「ゴドー」がやってこないのだが伝令の少年がやって来ないと言いにやってくる。そのへんも不条理だ。コミュニケーション不在。(2017/10/20)


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