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心乱す『こころ』

『こころ』夏目漱石

あなたはそのたった一人になれますか。
親友を裏切って恋人を得た。しかし、親友は自殺した。増殖する罪悪感、そして焦燥……。知識人の孤独な内面を抉る近代文学を代表する名作。
鎌倉の海岸で、学生だった私は一人の男性と出会った。不思議な魅力を持つその人は、“先生"と呼んで慕う私になかなか心を開いてくれず、謎のような言葉で惑わせる。やがてある日、私のもとに分厚い手紙が届いたとき、先生はもはやこの世の人ではなかった。遺された手紙から明らかになる先生の人生の悲劇――それは親友とともに一人の女性に恋をしたときから始まったのだった。

漱石の作品で一番人気だというのは授業でやったからなのか?自分はやらなかったような。『門』だったような気がする。『それから』かもしれない。その頃はあまり授業聞いてなかった。でも『それから』で漱石が好きになったのは間違いない。今でも一番好きなのだ。『こころ』は苦手。

『こころ』はボーイズラブ説は自分も一番納得する。先生はそれに気が付かずKの自殺してから気がついてしまった。そして私との出会い。明治の時代精神と共に自殺するのは三島文学に通じるのか?

芥川龍之介『将軍』

初出は「改造」[1922(大正11)年]。「将軍」[新潮社、1922(大正11)年]に収録、「沙羅の花」[改造社、1922(大正11)年]に収録された時は著者の自序が付された。全4章で構成されており、日露戦争の旅順総攻撃の話から始まり、戦争から10年後、「N将軍」の部下「中村少将」とその息子である「青年」の話までが描かれる。「N将軍」のモデルは乃木希典。

中国視察から帰国してから書かれた小説。『江南游記』に検閲されて一部伏せ字になったことや編集者が小言を言われたことが書かれている。それでも中国よりはいいとしているのだが。伏せ字になった部分は庶民の兵隊の軍隊の憤りで、もう一方でインテリ上等兵はN将軍を慕っている。

N将軍のモデルが日露戦争の乃木将軍とされる。乃木将軍の殉死をついて描いた作家に漱石と鴎外がいる。そして、芥川龍之介。漱石は『こころ』で明治の時代精神として殉死を描いていたが芥川は大正の文学者でその違いを読むと面白い。N将軍は肖像画を残して殉死したが、上等兵の息子は友達は肖像など残さずして自殺したと。

父親と息子の英雄像の変化。息子はレンブラントの肖像画とは一緒に飾れないという。N将軍を「善人」として描きながら、中国人のスパイを処刑したり(日露戦争でロシアのスパイというのは中国視察で実際に目にしたのではないか?)、宴会で下ネタ演劇を検閲しながら母子人情劇を称賛する中に見る権力。

『虞美人草』で美人の共通項が生まれ、それが百貨店で売り出される。『三四郎』は地方青年の上京と立身出世の夢を描く。『こころ』の先生の明治の時代精神。漱石文学は個人主義の敗北とネーションの形成の物語になっていく。作者が意図してというよりも無意識的なのだという。

そのときに重要になってくるのが新聞のようなメディアだった。夏目漱石はまさにその象徴的な文学だ。新聞小説によって、顔の見えない読者層に、俗語で共通の物語を想像させたのだ。「想像の共同体」か?

ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』

「ネーション」は想像によって形作られる。国民という存在は一人一人顔が見えない存在で、それを束ねる為に国民という言葉が必要になる。そのときにポイントになるのが言葉で、それ以前は言葉は「聖なる言葉」。

『こころ』1955年市川崑監督

こころ | 映画 | 日活 https://www.nikkatsu.com/movie/20056.html

Kが梶になっている。最初の墓参りのシーンで墓がKだったら可笑しいもんな。ドラマ化するなら名前を与えなければならかったのか。大体ストーリーに忠実だけど展開は変えてある。先生と私のシーンと先生と梶(原作では「先生の遺書」)のシーンが交互に織り込まれた。

原作でもそうだが一番「こころ」がないのは奥さん(お嬢さん)だよな。そういうふうに描かれた(私の語りと先生の語りだから)面はあるが、愛の告白を受けるのも梶は先生にするのだし、先生はお嬢さんの母親に「お嬢さんを下さい」というのだった。つまりお嬢さんの「こころ」はどうでもいいわけだ。

むしろ奥さんの「それから」を考えると、そっちのほうがどうなんだろう。やっぱ「私」が面倒見なきゃならないのか?先生の家で荒れた家を整理するのに「私」と奥さんが楽しそうにするシーンは、先生は見ていたはずだし、やっぱそうなるのだろうか?そこでも奥さんの「こころ」はよくわからない。

(注)後に先生の奥さんと語り手の私が結婚したという説もある。

『こころ』の先生と私はプラトニックな師弟愛だろうな。最初の海のシーンは怪しい。SFじゃないけど高橋源一郎の『こころ』の海水浴のシーンは「向こう側からきた私は先生の若い時」というのは面白い。時代を超えて明治の「私」と昭和「私」。大正の「私」は自決したのか?奥さん(静)が私と共に生きていったというのはあるかも。

Kは記号化された人間。明治の精神性か。幸徳秋水説?漱石自身(夏目金之助)?Kは発音しないからナッシングとか?「精神的向上心がないやつは馬鹿だ」。その言葉が自分に還って首を締めてしまった。馬鹿だけど生きていれば恋もする。Kはどういう人生を望んだのかよくわからない。Kの孤独。

先生はKが静を好きになったから、急に静を欲しくなった。静への愛はなかった(「欲望の三角形」)。ただ静の好意を自分が価値ある人間だと思っていた(嫌な奴)。金利生活者。疑念の目。懐疑主義者。ただ未来から来た私には心を解き放とうとした。乃木大将の殉死が奥さんを道連れにしたので奥さんを生かしたとか。

静は魔性の女か?二人の男が死んだと言っても、二人の相討ちみたいなものだからな。ただ奥さんとなった静はちょっと魅力的かもしれない。っていうか私は誘惑されているのだろうか?それを先生が仕向けた。

姜尚中『心の力』(集英社新書– 2014)

姜尚中最新刊!
過去を力に変え、心の実質を太くする!
刊行後100年。漱石『こころ』を手掛かりに考え抜く。
ミリオンセラー『悩む力』と長編小説『心』の著者が、夏目漱石が一〇〇年前に書き残した最大の問題作に挑む。登場人物先生の長大な遺書を収めた漱石の『こころ』は、なぜ多くの読者の感情を揺さぶってきたのか。それは、この世に生きる者がみな、誰かに先立たれた存在だからだ。「死にゆく人々は、みんな先生」という認識から見えてくるものとは? 漱石『こころ』とトーマス・マン『魔の山』の後日談を描いた実験的な小説も収録。心の実質を太くする生き方を提唱した、新しいスタイルの物語人生論。

漱石の『こゝろ』がひらがななのは何か意図がある。新聞連載のときは漢字で『心』。それを本にするときに「こゝろ」に変えた。そして先生が語ったのは明治精神との殉死。まさに近代の「精神」が明治に入ってくる時代。漱石とかその周辺の作家が性急に日本語の境界をどんどん広げ、それで文明開化していく。その中で神経衰弱に陥ってしまったのかと。たぶん先生はそういう明治と殉死する道を選ばざる得なかった。先生が伝えたかったのが「精神」よりも「こころ」という「イニシエーション秘技伝授」ではないかという。だから文学は語り継がれるもの。

トーマス・マンの『魔の山』のサロン的なモラトリアム期間の中で思考を形作っていく。漱石の周りにはまさにそのような感じだったのかと。(2014/02/02)

姜尚中『NHK「100分de名著」夏目漱石『こころ』』

あなたは“真面目”ですか
自由と孤独に生きる“現代人の自意識”を描いた、不朽の名作『こころ』が誕生してちょうど100年。他者との関係性に悩む登場人物たちの葛藤を読み解きながら、モデルなき時代をより良く生きるためのヒントを探る。著者渾身の書き下ろしの特別章〈「心」を太くする力〉を収載!

第3回。Kと先生の分身の話は面白かった。昨日タイミング良く『世にも怪奇な物語』でポーの「ウィリアム・ウィルソン」を観ていた。そうか畏怖するKは先生のもう一つの孤高の魂なわけだった。それが明治という時代か。その半面で人と繋がりたい男がいる。

Kと先生と私の重層構造は描き方が上手いよね。若い時の向上心と恋愛と孤独と人間関係と。生と死と。人気作なのがわかる。(2013/04/20)

夏目漱石『こころ』はまとまらないのだ。

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