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自主制作映画(ATG)も総括が必要なのかも

『ヌーベルバーグ以後―自由をめざす映画 』佐藤忠男(1971年/中公新書)

 
六〇年代を通じて、日本の映画産業は一貫して衰弱をつづけたが、逆に、日本映画の内容はかつてなく多彩をきわめるようになったのである。そして、それは、一言で要約すれば、資本がつくる映画から、作家のつくる映画へ、という動きであった。

佐藤忠男氏が亡くなって偶然古本屋で見つけた本を読んだ。1971年出版の本だから60年代の映画総括という感じ。アメリカ・ニュー・シネマの時代、そのあたりの映画好きになったのかもしれないと懐かしく思う。ハリウッドの逆を行く「アンチ・ヒーロー」「アンチ・ハッピーエンド」。低予算映画。

日本だと羽仁進のドキュメンタリーから紹介しているのがいい。彼はカメラの進歩によってヌーベルバーグ的になったと。その説は面白い。映画とカメラの進歩は切り離せない。今ではスマホ撮影だけで、映画を作れる時代だ。リアリズムの進化だった。SFXで膨大な予算で作られるハリウッド作品とは対極的。

大島渚はヌーベルバーグより政治的。後のトリュフォーらが商業映画化していくのだ。そんな中でゴダールは政治的映画を取り続けた。ジガ・ヴェルトフ集団の映画。ブレヒト演劇の「以下効果」の導入。感情移入の映画ではなく思考させる映画。これは今でも流れを継承しているかもしれない。ただこの辺になると自主映画時代。

アメリカではカサヴェテスのインディペンデント映画。『アメリカの影』での会話は即興的だという。それにカメラが追いつかない(会話の主のクローズアップがブレていく)。音楽がチャールズ・ミンガスでこれも即興的。カサヴェテスはハリウッド俳優出身なので、カメラワークについては詳しいので意図的にやったと。ドキュメンタリー的なリアリズム。

フランスでもルイ・マル『死刑台のエレベーター』でもマイルスの即興演奏で映像にリアリズム的な緊張感を与えた。

日本の自主制作映画(ATG)にもリアリズム的表現が目立ってくる。路上ゲリラ映画路線から政治ドキュメンタリー映画へ。それと角川映画の台頭や最後の大作映画が同時期なのか。映画バブルもこの頃まで。今はシリーズ化とTVや他メディアのヒットからの映画化だろうか。動画配信サービス。

大島渚が日本の代表とされるが、そのあとにエロス路線。増村保造「征服されざる女たち」や今村昌平「アメリカに強姦される女」、若松孝二「性的ゲリラ」。今の時代だと問題になってしまうかもしれない。このへんの総括が必要かも。

一つは大作映画が徐々に撮れなくなり、低予算映画で、当時映画をよく見ていた層が学生だったということで、日活ロマンポルノなどの映画が流行ってきた。その中から日本映画を牽引する者が出てきた。映画が公的から私的なものへなっていく時代。私的な日常を描く映画が多くなる。

最近のパワハラ・セクハラ問題も、日本の映画の家父長制問題が根っこにあるのだろう。低予算映画は中小企業化して家族操業化になる。よく〇〇組というヤクザに喩えられたりした。大島組というような。それが娘たちの側から抗議の声が出てきたのが最近の流れ。以前は体当たり演技とか言って裸でする演技を褒められたものだった。

娘たちが映画を撮り始める流れ。あとそれから離れる為にドキュメンタリー全盛とか。第三世界の映画の時代。日本は以前からあったがアジア勢やアフリカ勢の台頭。反抗的映画/東ヨーロッパの苦悩する映画など。

あと日本だとアニメ映画は無視できない。システムとして隷属されたアニメーター問題とか。ここでも映画の構造自体が家父長制構造なのかもしれない。そういえば監督の後を継ぐ後継者とか。

結び 映画は甦える ゴダールの新たなる模索/民衆の中へ!

夢のある時代だった60年代のヌーベルバーグも分岐点なのかもしれない。

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