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シン・短歌レッス118

王朝百首

塚本邦雄『王朝百首』から。小侍従。


春といへばなべてかすみやわたるらむ雲なき空の朧月夜は                     小侍従

春は朧月で詠めるんだ。春は朧で秋は霞。違った春も霞だった。秋は霧だという。こういうのはどっちでもいいのにと思ってしまう。朧で春の意味があるのか?

小侍従は平安後期から鎌倉時代の花形女性歌人だそうだ。名月も随分読んでいるが「待宵の小侍従」と呼ばれたのは以下の和歌から。

待つ宵の更けゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥はものかは  小侍従

掲載歌は最晩年の作であり保元・平治の乱の乱に青春を過ごした無常観が出ているという。

文芸選評

毎週土曜日にお送りしている『文芸選評』。今回は短歌で、テーマは「犬」。選者は歌人の木下龍也さん。司会は石井かおるアナウンサーです。

木下龍也は最初に読んだ本『天才による凡人のための短歌教室』から進むべき道(短歌道)が違うと思ってしまった。

今思えばまだ短歌の何たるかを知らない時期に読んだのだが、今は彼がメインストリームだと分かっている。その批評として、『短歌研究2024.1月号』の平岡直子『木下龍也の「き」はキリストの「き」』に共感したのだった。

彼の手法は短歌のコピーライト化であり、キャッチコピーなのだ。それを物語るように最近チョコレートに木下龍也の短歌が載るという(キットカットか?)違った。もっと高級感のあるものだったヴァレンタイン商品だったのか?

これは俵万智のチョコレート短歌に匹敵するというか、そのものじゃないか?こんなことは許しがたい!三省堂に行ってそのチョコレートの上に檸檬でも置きたい気持ちだ!

西行

目崎徳衛『西行』から「数奇の種々相」。西行が出家に憧れたのは数奇者の僧侶を尊敬したからだとは前回やったが、そして月と桜が数多く詠まれるようになる。その中でも特別に人々の注目したのが、

ねがはくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ  西行

これは多くの人に「花」は桜で桜を詠んだ歌だというのだが、下の句の重要性を考えると結句の「望月」の方が意味があるように思える。釈迦の花は沙羅双樹だ。別のこの花は桜である必要性もなく、釈迦の涅槃にあやかりたいのなら沙羅双樹の方がいいのではないか?むしろ望月に強い思いがあったのではないか?

桜と思い込んだのは西行が先年に桜の歌を多く読み良経の『秋篠月清集』に描かれていたからである。他に慈円や定歌、俊成も西行を追悼する言葉を残して、それが西行伝説を作ることになった。

『詩歌と芸能の身体感覚』「短歌・俳句における古と稽古」

この本の批評は面白い。短歌と俳句の明確な違いを述べていた。まず「稽古」というのは中国の最も古いとされる『書経』から「イニシエヲカンガエルコト」から来ているという。古とは祝詞などを収める聖なる器のことで、古来から伝承される聖なるものであるからそれが規範となって稽古ということになった。そして中国では『楚辞』『詩経』まで遡り詩歌が稽古の規範となるのは当然のこととされたのだ。

ただ中国は儒教的な思想が強くあり、それを我が国に当てはめることよりも我が国の詩歌を率先させていくのだ。それが恋の歌の始まりで、『万葉集』は雄略天皇、『古事記』ではスサノオウ、あるいはイザナギ・イザナミの昭和まで辿ることが出来る。

イザナギ・イザナミの唱和というのは歌垣のプロローグ。スサノオウの八雲の歌は祝婚の言祝ぎの歌とされ、雄略天皇は巫女の口寄せが元になった神の歌だという。

そして『万葉集』が編纂されたときに多くの恋の歌が入れられた。それは男女間での相聞歌が多くあるからなのだが、『古今集』になって季と恋に分けられるのも季ももともと恋の歌があったからとされる。『新古今』になって純粋な季の歌を多く作ったのは西行だとされ、それは恋の断念があり、それが季に向かわせたということらしい。この時代に歌僧が多く現れるのはそのような理由があるという。そして連歌師たちはそうした漂泊の人だったので、それが俳諧師に引き継ぎそして芭蕉が誕生したということだ。

芭蕉も西行を稽古したということなのである。本歌と本歌取りというのは、まさに稽古(レッスン)ということなのだ。今度からシン・短歌稽古にしようか?

そして問題は正岡子規の登場なのである。かれが『古今集』を否定して『万葉集』を褒め称え武士の歌を褒め称えたのも、稽古ということなのだが正岡子規は蕪村を古としたのは即物的・写生的な考えがあったからだという。それは恋の明星派よりは、季のアララギ派といいうことになるのか?

俳句の場合、それがいっそう明確になって、季が恋を駆逐するのだ。だから伝統的に短歌に恋の歌が多いのは頷ける。その恋の歌が苦手なんだが、今度からは恋歌を意識して作っていきたい。

現代短歌史

篠弘『現代短歌史Ⅱ前衛短歌の時代』から「難解派批判」。中城ふみ子の登場によって、女流短歌が活発になっていく。そんな中から出てきたのが葛原妙子と森岡貞香だが、むしろ中条ふみ子は彼女らの影響を受けていたとされる。それは「女人短歌会」の中心メンバーとして活躍していた頃に中条ふみ子が「女人短歌会」に入ってきたということらしい。

羊毛のくもりなす空降りきたる白き眼帯ひとつ圧して  葛原妙子
剪毛されし羊らわれの淋しさの深みに一匹づつ降りてくる  中条ふみ子

胸のひずみたくみにおほへど息荒きわれの異常を人等はしるべし  森岡貞香

『短歌研究』で中城ふみ子『乳房喪失』が特選を果たす二ヶ月まえから「女流競詠」で葛原妙子と森岡貞香の短歌三十首が発表されていた。

中城ふみ子は突発的に出てきたのではなく、彼女も葛原や森岡、あるいは齋藤史の影響下から出てきた歌人であった。中城ふみ子が亡くなると男性保守派の歌人は葛原妙子をターゲットして批判したのだが、現在の葛原妙子讃歌を見るとまったく見当外れな見方だと思う。近藤芳美は女流短歌にそれこそ保守的な女性像を期待しているのである。現実は女性のパワーが戦後を切り開いていたのだ。おしとやかで知的な感性溢れる女性を求めてどうするんだと思う。

葛原妙子のそれらに対する反論「再び女人の歌を閉塞するもの」で近藤の言う歌人はふたたび閉塞(宮廷歌人か)しなければならないのか?いささか感情的にヒステリックになっている。むしろ、自分でそういう歌を作って見せればいいのだ。戦後世代の女性の鮮烈な生き方を通してそれが短歌にも現れているのだ。

葛原妙子「再び女人の歌を閉塞するもの」を読む

それでも重鎮である男性歌人から批判は続くのであった。それにしても凄い批評というか。

わざわざ作品を添削してまで人格否定しているのだから、この人物の野卑さは自身に返ってくるだろう。100分de名著ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』で言っていることだった。短歌や俳句の添削は、添削される方の短歌や俳句の人格を矯正するものなんだと思う。納得すればそこに師弟愛みたいなものが生まれるかもしれないが、作風が違うところで矯正されるのはまさに屈辱的なものでしかない。ここでやっていることは男性歌人が思う女流歌人(この言い方もフェミニズムでは否定されている)に仕立てることだと彼は気づいていない。

確かにジャーナリズムの仕掛けはやりすぎなところがあったのかもしれない。映画が作られるとか。ただ作品を見れば中条ふみ子が先導する女性短歌の特異さと求心力はそれまでの歌壇の短歌にはないものだった。

『短歌研究 2024年2月号』作品観賞

田口綾子「はなたば」

この辺りの人は若いからまだウィキペディアもなく、むしろ旧Twitter(X)での紹介となる。

俵万智系だと今はメインストリームにいる人だった。

仕方なく見上ぐる空に夏みかん取り残されつつ冬は深まる

俳句みたいだな。口語短歌であり、「夏みかん」の象徴性かな。

きらきらとマイナンバー(数字)の降りそそぐ道をみな一列にゆけといふこゑ

社会詠も詠めるという器用さか。旧仮名遣いもベテラン歌人には受けるかもしれない。ただこの批評は新聞記事みたいでオリジナルティに欠けるかも。

”地雷”とか”爆死”とか”村が焼かれた”とか理解(わかり)つつ今は比喩が及ばぬ

これも社会詠。比喩で考えようとしているのか?と問いたい。感情をそのまま伝えるだけでもいいのではないのか?この短歌がそういうことなのか?

こんなにひどい世界へあなたを「推す」なんて、感想など書く手をひつこめぬ

SNSのことを言っているのかな?「推す」が「スキ」みたいな。よく人が亡くなったときに「いいね」とか推す神経はどうなんだと思う。そういうことかもしれない。コメントしようと思ったがそれもどうかと思う気持ちはよくわかる。ただ最近はそうしたほうがいいのではないかと思っている。この短歌には共感があるな。

舞台上手に魔法を使ふこのひとも春には確定申告やせむ

これは大いに共感する歌ではあった。生活詠か?

よわき者より狩られてゆけり上空に誰かの振りまわはすくさりがま

これはゲーム世界を現実とリンクしているような歌でけっこう好きかもしれない。ちょっと分析してみよう。

よわき者より 狩られてゆけり 上空に 誰かの ふりまはす くさりがま

定形でもないんだけど、七七五九(四五)五の破調かな。リズム的には問題ないかもしれない。

むらぎもの心鬼にして、などと言ふなかれ力ある鬼たちは

「むらぎも」が古語だった。これも定形は外れているのだが、初句と結句は定形で完結しているからいいのかな?意味的には心にかかる「むらぎも(五臓六腑)の」助詞なのか。そういう世間だという感情なのか、これは理解出来る。先の歌と対になっているのかな。

小春日和も続きすぎては次々とまたされこれは何の花束

表題歌。ここでの「小春日和」はもう冬になっているのだろうな。日常を短歌で詠んでいるという感じだった。共感するところもある。そつがない感じかな。

初谷むい「うたぱに」

頭が痛い短歌の登場だった。もう初谷むいは説明不要だった。

わたしは歌って、きみを騙した 色を 花で 説明するときの説得力

定形に収まらない独自なリズムだった。ただ短歌の形式が「恋歌」にあるとするならばけっこう共感力が高いのかもしれない。おじさんは共感しにくいけど。おじさんでこういう言葉に翻弄されるのもありかな。なんか短歌プレイとか?

つまんない朝 つまんないのは内緒の朝 見失いたかったんだと思う

リフレインさせているから、短詩的ではあるな。短歌と呼べるかは疑問だが。彼女はそういうスタイルを超越しているのかもしれない。若者に共感しそうな詩だとは思う。

左目から出た涙ちゃんが右目へと走った まばたきでさよなら涙ちゃん

けっこう笑ってしまうけど、坂本九の歌で「涙くんさよなら」という歌がおじさんを共感させる。懐メロ的なファンタジーさがその辺にあるのかな。

空気がわたしのものになる感じがうれしくてキモいよ生きているのはキモい

このへんで段々と共感してくる自分が怖い。これが初谷むいのマジカルワードパワーか?

ぽみゃ ぽみゃ と心臓はがんばる 誰のためとかはなさそうだよね

「ぽみゃ ぽみゃ」のオノマトペは折口信夫『死者の書』を感じさせる。なんか凄いのか、虚仮威しなのかよくわからない。ただ彼女はマイペースの人なんだろうな。こんな歌をここに発表するぐらいだから。

ボールペンをグーで握ってたくさんのハートマークを描いた くるしい

前半のカワイさを最後の「くるしい」で締める。キラーワードだよな。これはオタク系は参ってしまうかもしれない。

むねのなかの夜にはちいさな月がある わたしは愛のようにやくたたず

だんだんとファンに成っていきそうな気持ちがしてしまう。

いっしゅんでも花畑にみえたらいいと思った 夢の終わりのクラクション

このへんは穂村弘系なのか俵万智系なのか掴みどころがないが共感してしまうかもしれない。彼女のコトバはお花畑であると本人は自覚してやっているのだ。「夢の終わりのクラクション」このへんの言葉は痺れる。

そろそろ五千字。映画短歌でしめくくり。今日は初谷むいに挑戦だな。

映画短歌

映画はカール・ドライヤー『ミカエル』だった。夢の世界という共通点はある。

本歌

空気がわたしのものになる感じがうれしくてキモいよ生きているのはキモい 初谷むい

「キモい」がパワー用語か?なんかドライヤーの映画でいけそうだ。

君のクローズアップ キモい キモい キモいからああ気持ちいいから  やどかり

マジカルパワー短歌?




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