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歩行の俳人、山頭火
『山頭火 名句鑑賞』村上 護 (山頭火文庫)
自選句集『草木塔』を中心に、その背景、表現方法など創作の軌跡を解説。放浪の俳人・種田山頭火の魅力に迫る!
目次
漂泊流転
再びの行乞
雑草の其中庵
旅と草庵
銃後の市井人
終焉の松山
出家以前
図書館本で返却期限が来たのでとりあえずまとめ。
有季定型に限界を感じ自由律はどんなもんかと読み始めたのが渡辺利夫『放哉と山頭火: 死を生きる』でいい加減な放哉よりも山頭火の方が漂流の俳人らしく思ったので句集を読んでみた。
ただ山頭火ばかり読んでいると息苦しくなるのも事実で放哉の句集と交互に読んでいてのだが、だんだん違いが分かってきた。
山頭火と尾崎放哉の違いは、放哉は自己肯定の自由律なら、山頭火は自己否定の自由律なのだ。それは山頭火が父の放蕩の血縁と母の自殺に彼の煩悩は断ち切れなかった。母の四十七回忌の句。
うどん供えて、母よ、わたくしもいただきまする
句読点は合掌だという。山頭火の特徴としてはリフレインは歩くリズムだという。そうして行乞(ぎょうこつ)を続けながら煩悩を消し去りたいと思い、自然に埋没していく行乞は煩悩の断ち切れなさを表している。
分け入っても分け入っても青い山
最初の「分け入っても」は煩悩を断ち切るための行乞だが、後の「分け入っても」煩悩の断ち切れなさに行乞を続ける姿。そこに自然の(青い)山がある。
山頭火の俳句の特徴は歩くリズムとリフレイン。自然の中に癒やしを見出す水と俗世間に溺れてしまう酒の日々の繰り返し。それをどう読むか?歩行の俳人、山頭火。
どうしようもない私が歩いてゐる
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