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シン・短歌レッス68

今日の一句

紫陽花と曇り空の写真は撮り飽きた。でも紫陽花の俳句はちっとも出来ない気がする。今日こそは傑作を作ろうと思う。俳句人生をかけた傑作というのを、ほんとかいな。やる気だけは満々。

先日の

額紫陽花の中の印象派

額の花印象派をつめにけり

はいいと思うのに、それがどうしてこうなってしまったのだろう。

耳切つて絵の具を貸せと額の花

凡人脱出を狙うのはいいかもしれないが、わざわざ狂人の句にする必要もないだろう。いくらゴッホが好きだって。もっと違う風に詠めないか?

ゴッホ描く向日葵よりも紫陽花を

今日の一句でいいか。

さっさと先に進めよう。それでなくてもこのレッスンは時間がかかるのだから。やることばっか増やしてしまった。そもそも俳句はやるつもりはなかったのだ。

在原業平の和歌


今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや  在原業平

『古今集・春上』

似たような和歌が桜であったよな。それは業平のこの歌を本歌取りにしていたのか?今確認する。出て来ないから先に進める。

この歌は相聞歌で先に女の歌があった。

あだなりと名にこそたてれ桜花年にまれなる人もまちけり  詠み人知らず

『古今集・春上』

女の歌(そう読んでしまうのは業平との相聞歌になっているからで実際は男の歌かもしれない)は単純に桜の花を待つように来るのを待っていたという歌である。

対する業平の歌は、打ち消しを含む反実仮想を二つ設定して、落花を雪降りに見立てて、実際にはそうでない世界(雪でない世界)、花を雪と見る世界があるだろうか?他人の心変わりを揶揄って逆襲するというなんとも複雑な歌だった。

難解歌だが、マルチバースの世界で雪と桜を歌で切り替えるのを相手に見させて、今は春の桜の季節だよと指パッチンするのである。それが業平の歌のマジック。このテクニック使いたいな。

うたの日

お題「心」。「百人一首」本歌二十八番。

冬は草も人もかれる(別れるの掛詞でもある)から一番であるという歌。これを梅雨にすればいいのか?

梅雨時は卯の花腐し心さえ人めもくさも腐ると思へば

もうちょっと整理しなければな。梅雨を雪に見立ててればいいのか?業平のテクニックを使うぞ。

今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや  在原業平

梅雨時は心こもりて花腐し外は雪とぞ雨読の国へ

『百人一首』は関係なかったか?今日は業平の本歌取りに挑戦だった。

「徒」は「徒花」が使える。

心さえ卯の花腐し徒花と人目もくさも腐しと思へば

難しすぎるか?こんな季節(世界)だから仕方がないという歌だった。ネガティブすぎるかな。♪3つ。♡が取れない。

俳句レッスン

今日も岸本尚毅・宇井十間『相互批評の試み』から「日常性について」を読む。今日は飯田龍太の「日常俳句」か「思想俳句」かを巡って。

鰯雲日かげは水の音迅く  飯田龍太
かたつむり甲斐も信濃も雨の中  飯田龍太

夜の蟻迷へるものは弧を描く  中村草田男

月はいま地球の裏か磯遊び  大峯あきら

俳句の日常性という客観描写は実は俳句の思想性という概念を詠んでいるのではないか?

岸本尚毅はこれらの俳句を3つに分類する。

(巨視的神話的見方)
かたつむり甲斐も信濃も雨の中  飯田龍太
月はいま地球の裏か磯遊び  大峯あきら

(象徴・寓意)
夜の蟻迷へるものは弧を描く  中村草田男

蟻が迷えるものを象徴している。

(日常即思想詩)
鰯雲日かげは水の音迅く  飯田龍太

この日常性は昔からそうであったという写生句で、その本質を捉えたというのは、思想を捉えたというのはそうである。それは「日常を突き抜けた」という手垢が付いた日常に非日常を呼び醒ますことが詩であるとする。それは日常を「日常性」という鉤括弧でくくる思想性なのだとする。それは日常俳句と思想俳句の対立性を示すものではない。

ただこのような句に見られる作者がアフォリズムたることを目指すとその意図が透けてしまい駄句になる。本当の名句(強い句)はそういう意図を持たないところから生まれてくる(放哉の自由律とか?)。思想性ではなく日常性からか?

銃後といふ不思議な町を丘で見た  渡辺白泉

「町」や「丘」という日常が「銃後」という非日常に染まっている姿を見出した日常性の俳句。その距離なのか。コロナ禍と日常との距離。

コロナ禍のマスクない町感染死

しかし、その非日常性も日常になっていく中で詠まれる名句も多い。

亡き父の秋夜濡れたる机拭く  飯田龍太
亡き母の薬とびちる冬畳  飯田龍太

亡き母のコロナ禍痴呆忘れゆく

季題を見出すことで、非日常の世界を日常の運動へ導いていく

梅雨空にコロナ禍痴呆母隔離

難しいぞ。有季定型の季題が日常性を纏っていく。あらためて季題を見直すことで世界に寄り添うということか?それが上手い俳人として河原枇杷男の句を上げる。

天に手を昏れ残りゐる冬野かな  河原枇杷男
枯野くるひとりは嗄れし死者の声  河原枇杷男
死の襞をはらへばひとつ籾(もみ)落ちぬ 河原枇杷男

わからん。

今年去年貫く棒の如きもの  虚子

虚子の句は今年も去年も歴史という非日常性を無効にする日常俳句である。それは見えない時間を棒の如きものと喩える写生句だと言われているが、本来は思想句である。象徴句という手法。そういう歴史性を無効にしてしまう日常性の俳句と歴史性に拘る俳句があるという。

銃後といふ不思議な町を丘で見た  渡辺白泉

宇井十間は虚子よりも白線の句が好みだという。あるいは「歴史性の萌芽」を感じさせる句として、

鰯雲日かげは水の音迅く  飯田龍太
月はいま地球の裏か磯遊び  大峯あきら

ますますわからん!

川名大『現代俳句』から「星野立子」4Tだけど他の3Tが短歌からの移行組なのに対して立子は最初から俳人として立つ子。親父ギャグが出てしまった。立子の親父は虚子であるのだが。天賦というべき俳句的才能という。虚子直伝の花鳥諷詠、客観写生、日常俳句。ほとんど嫌いなものばかりだが、立子はそれほど嫌いでもなかった。素直な句が多いからか。

今朝咲きしくちなしの又白きこと
しんしんと寒さがたのし歩みゆく
戻れば春水の心あともどり
父がつけしわが名立子や月仰ぐ
美しき緑走れり夏料理
障子しめて四方の紅葉を感じをり
たんぽぽの皆上向きて正午なり

川名大『現代俳句』「星野立子」

くちなしの匂いじゃなく白さに目が行くところか?白はけっこう汚れているのだが。今朝咲いたばかりだからだ。そういう実家に住んでいるということもある。又があるから匂いは言わずもがなということか。そこに立つ立子。

寒さがたのしはなかなか言えない。なんだろう。吟行なのか?そういう楽しみがあるということだよな。

汀女、莉花女(わからんけどお嬢さん俳人か)と百花園にて吟行というのだから、それだけで早春の輝きみたいな情景なのだ。そこで一句詠んで、年老いてゆく。映画みたいだ。

立子の月の俳句は、虚子が月を詠むことは月並みと言ったにもかかわらず月並み俳句にしなかった。

緑が走るとはサラダとかだろうか?枝豆か?夏料理だからなグリーンなんとか。そう想像するだけでも楽しい気がする。まあ日常俳句なんだが。感性がいいのかな。吉本ばななのような。親父は嫌いだけど。

障子閉めて紅葉が感じられる家ってどんなのか想像できない。そっか外部の紅葉を遮断してこそ俳句が書けるとことのようだ。毛筆とか?パソコンじゃないよな。

ここで「たんぽぽ」なんだよな。あざみとかではないんだよ。アザミ嬢の方が好きだが。

次は中村汀女。おおらかな母性にねざした俳句だという。立子と比較されるらしい。

咳の子のなぞなぞあそびきりもなや
鯛や暗しと思ふ厨(くりや)ごと
水打ちてよごせし足の美しく
外にも出よ触るるばかりに春の月

川名大『現代俳句』「中村汀女」

病気の子を詠むとか反則すれすれだな。

「厨(くりや)」は今は読めないよな。厨房で持ってきた。なんで鯛なのに暗いんだ。当時はそんな台所だったのか?今の感覚には合わないな。

「美しく」とか直接言ってはいけないと今では言われるよな。でもその前によごせし足があるから?となる。水を打つということは埃っぽいから足が汚れるのか?自分は汚れても人の為という句だろうか?汚れでかえって白い若い女の足が映えるというのは足フェチじゃなきゃ出て来ない感想だよな。なんで若いってわかるんだよ。自己愛は感じてしまうのは一緒だけど。

ラインの文章のような。月はでも秋だよな。家の中にいる家族に呼びかけているとか。そこが今だと違ってラインとかになってしまう。このへんで汀女はいいや。

新古今歌合

今日は「冬八番」勝負。

(歌合七十五番)
おのづから音するものは庭の面に木の葉吹きまく谷の夕風
冬日浴むる白き垂れ布(ふ)に影顫(ふる)ふ庭の木の葉に風すさぶらし

木の葉に吹きまくる風対決。左の方が強そうだ。右は白い布に写る影と芸が細かい。これは正比古だ。左『新古今』で右の勝ち。当たり。左は音、右は影(光)

(歌合七十六番)
移りゆく雲にあらしの声すなり散るか正木の葛城の山
深山木は秋も限りとすべて捨てあらはとなりぬおどろおどろし

左は葛城の山という地名があるから『新古今』だと思う。冬山対決か。左の方は状態で、右は感情みたいな。右は感情過多のような。「おどろおどろし」をどう思うかだよな。
当たり。左は「正木の葛」というのは定家葛の別称で掛詞になっているのだった。

み山には霰降るらし外山なるまさきの葛色づきにけり

『古今集 神遊び歌』

(歌合七十七番)
山里の風すさまじき夕暮れに木の葉乱れてものぞかなしき
光る径銀杏葉(みちいてふば)蝶の影なして転(ころ)びて舞ひてわらの先ゆく

「径銀杏葉(みちいてふば)蝶」がわからない。道の銀杏が蝶に見えるということか?右は凝っているから正比古だろう。左は素直に夕暮れの山おろしの風を詠んでいる。左『新古今』で勝ち。当たり。

(歌合七十八番)
木枯しの一夜に銀杏は葉を落とし裸木あさの蒼穹に顕(た)つ
いつのまに空のけしきの変るらむ激しき今朝の木枯しの風

木枯らし対決。二つとも木枯らしが葉を散らすことを描いているのだが、左の方が凝っているな。右はそのままだから『新古今』で左の勝ち。当たり。「木枯し」は『万葉集』にも『古今集』にも無いそうだ。

(歌合七十九番)
霜結ぶ袖の片敷きうちとけて寝ぬ夜の月の影ぞ寒けき
片敷きの袖に月影宿らせし夜寒の床は霜もまよひぬ

「片敷きの袖」対決だが意味はわからん。左は霜が結ぶほどの寒さと言っているのだが、右は霜も迷うと言っているからアツアツなんだろう。右は正比古だな。左の寒さは『新古今』。当たり。でも意味が違った。「片敷きの袖」はひとり寝ることを言うのだった。だから右は一人寝は霜もひどいという状態だった。一人寝の夜だった。

(歌合八十番)
夕映えの山沼に沈く木立影歪めて二羽の鴨の寄りくる
吉野なる夏実の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山陰にして

冬の夕暮れの鴨対決なのか?右は地名があるから『新古今』で左は正比古か。映像と音の世界。左の映像が勝ち。
当たり。地名はボーナス問題だな。

(歌合八十一番)
なかなかに消えは消えなで埋み火のいきてかひなき世にもあるかな
こごる手をかたみにかざせし熾(おき)の火も遠く過世の火影となりぬ

炭火対決か?左はこんな世だが死ぬに死ねないという歌で右は火も暖かいと言っているのだろうか。左は『方丈記』の世界のようだから『新古今』、右が正比古。当たり。

(歌合八十二番)
石走る初瀬の川の波枕はやくも年の暮れにけるかな
せせらぎの果てに海原はるけくもいづこ限りぞ流るる吾が日

左は有名な春の歌の本歌取りか?下手だけどこういうのは天皇とかで『新古今』、右は正比古で勝ち。天皇ではなかったが左大臣だった。全問正解だった。正比古の歌は分かるようになってきた。

映画短歌

『独裁者たちのとき』

これは難しい。『百人一首』は

今日は両方とも難しいな。「折らばや折らむ」かな。

キリストの十字架背負う民衆は折らばや折らむ独裁者

字足らずはそこまで行けないという意味で。

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