泡沫候補は個人で政治と闘っていた
『黙殺―報じられない“無頼系独立候補”たちの戦い』畠山理仁
映画『NO 選挙,NO LIFE』を見て興味を持った。政党政治に対する泡沫候補の個人的な選挙で見えてくる日本の姿。どんどん個人が抹消されていく構造はこんなところにも。
第一章
マック赤坂の選挙活動について。最初は当たり前のように選挙ーカーで連呼する選挙活動だったが、あまり注目されないのでパフォーマンス型に切り替えたという。内田裕也の都議選の政権放送のパフォーマンス(ロックンロールを歌う)に刺激されたという。TVで放映されるのはNHKだけで、政権放送は選挙運動なので自由に発言出来るという。泡沫候補(ここでは「無頼系独立候補と呼ぶ)の選挙の不利な状況は政策を聞いて貰えない以上にメディアの偏りで顔が出ないことだった。それでパフォーマンに走るという。供託金を没収されながら何度も選挙に出るのだから訴えたいことがあるのだという。マック赤坂は平和ということで「スマイル党」を立ち上げた
第二章
日本における選挙番組やメディアの偏りは、始めから当選する候補を予測して党派政治に偏っている。驚いたことに、1967年にすでに大手新聞3社の間で泡沫候補を締め出す取り決めが行われていたこと。朝日新聞は、一般候補(当選しそうな党派の候補)、準一般候補(知名度がある候補)、特殊候補(泡沫候補)という識別があり、泡沫候補の記事は選挙告示と選挙結果ぐらいしか報道しないという。それも平等を謳ったアリバイ作りのような紙面だという。ほとんどのメディアがそういうことであり、泡沫候補と言えども日本を変えたい思いはあるのに、その差別はなんであろうか?
アメリカでは選挙を楽しむために泡沫候補にもスポットが当たるが、日本の報道番組のあり方は既成政党と弱小政党とのメディアの露出やインタビュー時間のあり方などTVを観ていても感じられることである。それがTV離れとネット中継により、ますます泡沫候補に注目が集まってきているのだ。
選挙でも大阪市長選では橋下元府知事が「大阪構想」の議論を深めたいと辞任して、大阪市町選に立候補したが、既成政党は候補者を出せず、泡沫候補3名が立候補して、「大阪構想」の討論を持ちかけたが、橋下元知事は彼らを無視して解散の理由である討論を行わなかった。それでもメディアは橋下元知事ばかりを報じるので、一方的になるのは当たり前。投票率も低い信任投票となっていくのだ(それもノーはカウントされず棄権票として)。今の社会はほとんどこのパターンではないだろうか?
第三章
都知事選が泡沫候補が多いのはそれだけ注目されるからである。ここにもメディアの偏重がある。東京都は予算だけでも国家並でそこの長を決めるのは、大統領選ぐらいには注目される。しかし、そこでも党派候補と泡沫候補の扱いは歴然と生じて、ある番組の討論会も主要三候補だけの討論会であり、その他の候補は畠山理仁がネット番組で中継したという。そのときは開票速報がすぐに小池百合子に出て、マック赤坂はすぐに退席したという。今の出口調査は、ほとんどすぐ出てくる。まれに間違いもあるのだが、メディアの出す数値によって決まっていくのも同然のような状態なのである。
それに抗議したのが、NHK党党首の立花孝志だが、彼の手法は政党政治にならったもので、そのいかがわしさはガーシーを担ぎ出し、泡沫候補は党への投票とガーシー応援させていた(それによって供託金は党の利益と折半になるという仕組み)。彼の選挙で金儲けのようなビジネスプラン(選挙で金儲け)は党派政治を裏返したものだった。
東京都知事選だけでもこの数年何度も行われるために莫大な選挙費用が必要になり、その見せかけの議論はほとんど無駄なオリンピックとか、大阪だったら万博とかになるのである。そのことを直接批判するメディアは少なく、知事も議員も芸能人化して崇める対象となってしまったのが、今の日本の政治のように思える。それが続く限り、彼らの奇抜なパフォーマンスは続くのであろう。
党派選挙で選挙戦術として進化させたのが幸福実現党だという。今ある弱小党も既成政党の真似をして、政党助成金を私物化しているようにも思える。そこには政党内の取り決めによって、司法は介入しない。そうした議論もなく政党助成金だけが膨らんで税金から捻出し、一方泡沫候補の供託金は世界的に見てもほとんどぼったくりなのだという。むしろ供託金などのシステムがある事自体が選挙の自由を奪うものだというのが当たり前なのだが、日本は高額な供託金によって選挙に出馬するにもラインが引かれているのである。そして党派政治の全体主義化がますます進んでいくのだった。
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