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シン・現代詩レッスン22

テキストはハン・ガン『引き出しに夕方をしまっておいた』。ハン・ガンは小説が紹介されて韓国文学ブームを起こした韓国の作家。私もハン・ガンは大好きな作家で過去にもnoteに紹介していた。

今日はそのハン・ガンの詩で韓国では最初詩人としてデビューしたそうである。韓国では詩が盛んな国なのは民主化運動とかあったからかもしれなかった。日本の60年代の雰囲気で言葉に対して熱かったのだ。今はその後の日本のようにシラケ世代でなければいいが。韓国ではパレスチナの詩も随分読まれていたということだ。そんな時代のハン・ガンの詩は、抒情詩で感性の詩人という感じだろうか。日本の短歌のように季節を歌ったものが多いような。またそういう自然讃歌と人間という感じなのか?

ハン・ガンがわりと死についての詩が多いのは韓国社会の反映だろうか?そこからの回復と軽々しく言うが、それは徹底的に死を考えた後での回復詩ということなので、今日はそんな難しい詩は選ばなかった。「六月」という今の時期の詩がいいと思ったのだ。これからの「六月」のために。

六月 ハンガン

だが 希望は病原菌のようだった
菜の花が満開だった裏道で
両足が倒していった草たち、あの草たちの体を
起こすことができなくて
ひりひりと痛んだのは胸だけではなかった
足の裏だけではなかった
夜どおし痛んで情の移った胃でもなかった
何が私をあるかせたのか、何が
私の足に靴をはかせ
背中を押し
力なく倒れた私を
起こし 立たせたのか 噛もうとした
舌先をかばってくれたのか

ハン・ガン『引き出しに夕日をしまっておいた』訳きむふな/ 斉藤真理子

ハン・ガンやっぱいいな。優しい感じがする。優しすぎるのか?「希望は病原菌のようだった」というのは韓国の民主化運動だろうね。「両足が倒していった草たち」デモ騒乱で逃げて倒れた者たちだろうか。草が「草の根の運動」というような象徴になっているのか?

「靴」というのは『少年が来る』でもモチーフになっているが逃げ遅れた人の靴も意味しているのだと思う。「光州事件」が5月末に起きて、それを過ぎての6月というような詩なのか。ちょっと難しいな。

6月の詩

だが コロナは希望だった
花見も少なく映画館もガラガラで
空席のままの席たち
そんな穴だらけの社会
だが ぼくの席はまだあった
マスクをしても拷問刑のように
思えたのに生き延びた
だが 今更告白するなんて
マスクを外してぼくの声にならない声
何がぼくに詩を書かせるのだろうか
だが それはコトバのキスなのかもしれない
詩を読んだお返しの 投げキッス
それが歌だったらどんなにいいのかもしれない
だが ぼくにはもう声が出ないのだ
噛みつくことだけでは駄目なんだ


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