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イスラム社会で自由を求めるということ

『裸足になって』(2023/ アルジェリア)監督ムニア・メドゥール 出演リナ・クードリ、ラシダ・ブラクニ、ナディア・カシ


全身全霊のダンスがあなたに語りかける 悲しみ、怒り、喜び、祈り—
北アフリカのイスラム国家、アルジェリア。内戦の傷が癒えきらぬ不安定な社会の中でバレエダンサーになることを夢見るフーリアは、貧しくもささやかな生活を送っていた。しかしある夜、男に階段から突き落とされ大怪我を負い、踊ることも声を出すこともできなくなってしまう。すべてを失い、死んだも同然の抜け殻となったフーリア。そんな失意の中、彼女がリハビリ施設で出会ったのは、それぞれ心に傷を抱えたろう者の女性たちだった。「あなたダンサーなのね。わたしたちにダンスを教えて」その一言から始まったダンス教室で、また再び“生きる”情熱を取り戻していく―

見る前は事故でバレエを諦めたヒロインが復活する感動ストーリーの映画かと思ったが、全然違った。そういうヒロインも描かれているのだが、その背景にあるのはイスラム社会の不条理な社会であった。

アルジェリアの女性監督でこのような映画が作られたということは、まだ希望はあるのだろうか?映画では絶望だけのような気もしたが、ヒロインがアルジェリアに留まりながらダンス教室を開くというのは希望としてあるのかもしれない。それがこの映画制作と共通することなのか?

原題は「フリージア」という「自由」という意味がある。まったく邦題はそんな意味は感じさせないがどこに「裸足」があるのだろうか?そうか、バレエというトゥ・シューズを脱いだという意味なんだろうな。それで自分を表現出来る聾唖のダンスに目覚めていくというような。プロデューサーが『コーダ愛の歌』の監督で、そういう面も強いのだ。

ただやはり見落としてはならないのはイスラム社会の暴力性だろう。その中で無力となる女性の立場。暴力を受けても相手の男は罰せられないという映画は、『聖地には蜘蛛が巣を張る』のように描かれてきたが、この映画はエンタメ映画としての成り立ちもあると思う。

まず主役のリナ・クードリはフランスでも活躍する俳優だった。なんか観たことがあると思っていたら、『オートクチュール』に出演していた。

リナ・クードリのわが道を突き進むというストーリーがある一方で、海の向こうの世界の自由を求めた親友は溺死してしまう現実もあるのだった。そして女性弁護士も裁判には関われない(報復社会?)という社会がそこにある。

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