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欲望表現としての邪鬼

『邪鬼の性』水尾比呂志/(写真)井上博道

ポーの作品を読んでいた時に「邪鬼」というものに興味が湧いて検索したらこの本が出てきた。小学生時代のみうらじゅんを虜とした本として語られている。モノクロ写真だが邪鬼の表情は写真家井上博道氏によって見事に捉えられている(それをみうらじゅん氏はアイドル写真集に見立てたのだ)。

邪鬼は仏教以前の自然神であり、それを理性(仏性)という力で押さえつけているのだ。仏教以前のヒンズー教は自然神の破壊神が守り神として崇められていた。邪鬼の元は仏教以前のそうしたヒンズー教の神々でありヒンズーの神々が仏門に下ると低級な神々が邪鬼として扱われるようになったという。ゲーム「女神転生」の世界。だから仏門の金剛力士に踏みつけられているのが邪鬼なわけだった。

その邪鬼の姿も時代と共に移り変わりがあるという。法隆寺の邪鬼はもともとは法隆寺のものではないらしいのだが、聖徳太子が仏教を保護していたときに建てられたもので相当古い時代のものらしい。その頃は邪鬼の表情も安定しているとか著者の水尾比呂志先生は邪鬼愛に溢れたエッセイで綴る。

それが大津皇子が謀反で処刑された後に立てられた当麻寺の邪鬼は四天王に踏まれているのが台座としての大きさが小さくなっていて不安定そのものだという。天武天皇の苦悩が現れているとか。邪鬼も台座になっているのにもいろいろ変化があるのだということを知った。

邪鬼が日本で培われてきたのは『古事記』に登場する天若日子が外界で天の深女にたぶらかされて天界に戻って来ないのを矢を放ったが逆に矢を返したことから、天の深女を天邪鬼とする説が成立したという。仏教伝来や神道成立以前の地神というところだろうか?そういう神を従えて台座に置かれたということは元来の人間の欲望は邪鬼の方にあり、白鳳時代から天平時代には仏教も乱れて東大寺の大仏建造はその時代の波乱を沈めるためだったが、邪鬼の姿に日本人の創造性があるという。邪鬼は踏まれながらも欲望の写実性を表しているのでありその異常性や過剰性にこそ人の欲望があるとする。西大寺の四天王は火事で焼けたが邪鬼だけは焼けただれながらも残った姿からその生命力が伺えるという。

邪鬼は人間の深層にある欲望だから踏まれるにしても意味がある。単なる疫病神でもないのだ。このへんの仏教思想はやっぱ後に出てきた宗教だけによく考えられている。もともとある人間の欲望や悪癖などが邪鬼の姿となって残っているのだ。

そしてその後に邪鬼は成長し続け大安寺四天王像では四天王の半分に達する大きさになっているという。そしてますます表情豊かに存在感を示すのだ。やがて踏まれる邪鬼からの独立した邪鬼として鬼の姿となって役の行者に従える密教の神となっていくのだった。それは毘沙門天として描かれることもあるという。ここに邪鬼の反逆としての歴史性があるのだと著者は言う。

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