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悲劇の物語の元型、「オイディプス」

『オイディプス王・アンティゴネ』 (新潮文庫) ソポクレス (著), 福田 恒存 (翻訳)

人の運命は計りがたい、
誰にせよ、最後の日を迎えるまでは、それを幸福な男と呼んではならぬ、
苦悩の巷を脱して、黄泉の国に赴くまでは――。
ギリシア三大悲劇詩人・ソポクレスの代表作を、福田恆存の名訳で。

知らずに実の父を殺し、生母を妻とし、ついには自ら両眼をえぐり放浪の旅に出る――テバイの王オイディプスの悲惨な運命「オイディプス王」。国禁を犯して反逆者である兄の葬礼を行ったために石牢に幽閉された、オイディプスの娘アンティゴネの愛と誇り「アンティゴネ」。
アイスキュロス、エウリピデスとともにギリシャ三大悲劇詩人と称されるソポクレスの代表作2編を収める。

ホメロスの口承文学は騙ることと聞くことがテーマとしてあった。ソポクレスの演劇になると対話することと見ることが重要になる。舞台上だけ観ていても駄目で幕を通して見通す力が必要になってくる。舞台を見下ろしている観客は神の視点か?登場人物で盲目の予言者テレイシアスだけが運命を見通していたわけで舞台上の人物は見ることは出来ても見通すことができなかった。目の前のことは騙されやすいということなのか?TVとか観ればそうだけど。でもあらかじめ運命を知ってしまった者はどうなんだろう?すでに観察者(リタイア)でしかない。

ギリシアの神々はそうとも言える。舞台を人間に譲って天上にいるのだから。行為者と観察者(傍観者)と。恋は盲目というようにそれでも行為者のほうが生きているといえる。オイディプス王に惹かれるのも彼が物語を生きているからだ。(2015/06/15)


「ソポクレス『オイディプス王』 2015年6月 (100分 de 名著)」 – 2015

島田雅彦は小説より解説の方が面白いというか、もともと面白い戯曲だから今日まで残っているのだろう。今日読まれている名作の原型だという。フロイトの「エディプス・コンプレックス」の元ネタ。父親殺し(権威との闘い)、近親相姦(禁じられた愛)、謎解き(自分のルーツ探し)、捨て子のテーマ(個の確立)。それが起承転結というスタイルを持って物語られる。ホメロスの口承文学からギリシア演劇へが、拡大して対話(弁証法)とコーラス(合唱)になっていく。(2015/06/29)

ソポクレス『コロノスのオイディプス』

ギリシャ悲劇『オイディプス王』の後日談。預言者の運命から逃れられなかったオイディプスが自ら目を潰して盲目となって追放された続編であり「コロノス」の神殿に慰留するところから始まる。これが反抗する人間オイディプスと神々との和解であるとされるのだが、その手を引いていくのが娘のアンティゴネ。オイディプスの息子二人はまだこの時点でお互いに討ち死にしておらず、オイディプスの相続権(王権)を争っている。弟の方が兄ポリュネイケスを追い出して、兄は外国の武将などを集めて反旗を翻そうとしている。

結局オイディプスの後継者は精神としてアンティゴネが相続したと考えていいのではないか。その前に書かれた『アンティゴネ』が叔父のクレトンと娘のアンティゴネの争い(討論)となっているのは、王と神託(巫女的な)の相続権の争いであると見るならば、アンティゴネが国では埋葬できない兄ポリュネイケスを埋葬する話であるのは、埋葬を批評(死者の業績などを整えること)なのではないか?『オイディプス』『アンティゴネ』、『コロノスのオイディプス』の神託の弁証法。(2015/07/05)

参考映画『アポロンの地獄』(伊/1967)監督ピエル・パオロ・パゾリーニ 出演シルヴァーナ・マンガーノ/フランコ・チッティ


パゾリーニの『オイディプス王』。元祖「父殺し」の物語というかギリシア悲劇のスタンダード。面白い。謎解きもの(ミステリー)なんだが結末を知っても面白いのは、王以外すべては真実を知っているのに王は何も知らない、気づかなない。そして最後は盲目の旅人。

1967年の映画だけど古さは全然ない。ロケが遺跡だからか、その中での演劇的のドラマ。そのスケール感と人物のアップ、特にこの映画では眼差しが重要なのはラストでオイディプスが盲目になるからなんだ。この世界を観られない、それは映画の世界、そして現代へと迷い込むラストも秀逸。(2018/01/21)


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