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フェミニズムという権力にしないために


『NHK出版 学びのきほん フェミニズムがひらいた道 』上野千鶴子(教養・文化シリーズ)

その歴史と意義が2時間でわかる、著者初の総合的な入門書。
学校で習った「男女雇用機会均等法」や「男女共同参画社会基本法」。これらは、真の男女平等を実現するものではなかった? 女性参政権、性的役割の解放、#MeToo……。フェミニズムはなぜ生まれ、何を変え、変えられなかったのか。その流れを「四つの波」に分けてコンパクトに解説する。
学校で習った「男女雇用機会均等法」や「男女共同参画社会基本法」。これらは、真の男女平等を実現するものではなかった? フェミニズムはなぜ生まれ、何を変え、何を変えられなかったのか。その流れを「四つの波」に分けてコンパクトに解説する。女性参政権、性別役割の解放、#MeToo……。過去を知り、自分の経験を再定義する言葉を手に入れるために。日本におけるフェミニズムを切り開き続けてきた第一人者が、多くの経験知とともにフェミニズムがたどった道のりを語る。

出版社情報

正月の「フェミニズム特集」で上野千鶴子に興味を持って図書館で予約していた。フェミニズムの歴史を4期(「四つの波」)に分けて語っていて判りやすかった。最初に紹介されたのがウーマン・リブだったが、これは記憶があった。結構誤解があったのかと思うのはTVでスキャンダラスに男を吊るし上げる中ピ連のパフォーマンスを「ウーマンリブ」と認識したことだった。田中美津がガリ版で発行していた『便所から解放』というチラシから始まった。

それは組織としての運動よりも個人の発露であったということ。

嫌な男にお尻を触られたくないというのは、運動の大義ですよね? でも私たちには、好きな男が触りたいと思うようなお尻がほしいという個人の欲望もある。

運動の大義よりも個人の欲望の発露だったというチラシは、いまでいうブログみたいなものではないのか?このスタイルは大衆運動よりも文学に近い感じがしたのである。

第一波での『青鞜』時代も最初は女性が発行した雑誌だった。金持ちのお嬢さんが出した途中で潰えた雑誌だが、伊藤野枝はそこからデビューしているのだ。そして平塚らいてふの、自らが寄せた文章の表題『元始、女性は太陽であった』は誰もが知る女性運動のキャッチコピーになった。

第一波が女性参政権を求めたことで終わったのは象徴的で国防婦人会を生んだのだ。それは運動の一つの限界だったのかなと思う。市川房枝は当時のことを反省していたようだが、政治的になるということはどこか妥協してしまうことなのかと思ってしまう。その反省は生かされたと思えないのは第三波で「男女雇用機会均等法」は「ネオリベラリズムの鴨になった」と上野千鶴子が総括したのだった。

第三波も始まりは女性学という学習サークルだった。それは草の根運動だったという。何故ネオリベを生み出してしまったのかは、第一波の過ちと同じところにあるような気がする。弱者切り捨てなのだ。

その揺り戻しは「ガーリー・カルチャー」としての一つの芸術運動だったのか?それは政治的側面よりは美術や映画という欲望の連帯だ。その個人的欲望を組織化して大衆の欲望にしてしまうことに危惧を感じるのは、最近のなんでも否定してしまうネットの女性運動だった。

先日読んだ韓国小説『滞空女 屋根の上のモダンガール』も政治運動の前にモダンガールになりたいという個人の欲望の発露があったのだ。そして運動の組織の中で旧態然とした男尊女卑について語られていた。

権力の乱用ということをどう諌めていくのか?それが今後のフェミニズムの問題となってくるのではないか?



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