見出し画像

批評性がないパロディはパクリなんだと思う

『語りなおしシェイクスピア 2 リア王 ダンバー メディア王の悲劇』エドワード・セント・オービン , (翻訳)小川 高義

世界のベストセラー作家が、シェイクスピアの名作を語りなおすシリーズ第二弾。
あの「リア王」が、現代のメディア王に。
巨大な企業王国をめぐる三人の娘の忠誠と裏切り。

テレビ局や新聞社を傘下に収めるメディア王ダンバーは、会社の乗っとりを狙う娘たちによって療養所に入れられるも、脱走。末娘だけが父の身を案じて捜索にのりだすが…。父親から虐待を受け、クスリと酒におぼれた自らの体験を基にイギリス上流階級の腐敗を描き続ける作家が、強烈で横暴な父親「リア王」を語りなおす。解説・河合祥一郎。

道化師役はピーターというから黒澤監督『乱』のピーターと同じ道化師役だと思ったがものまねコメディアンという設定がよくわからなかった。イギリスのTV番組で似たようなものがあるのだろうと思うのだが、お笑いを理解するのは難しい。とくにこういう小説では『リア王』のパロディだと思ってよむのでわからないと不安になってしまう。ダンバーの精神分析医みたいな物真似もやるので、そういうところは意味があったと思うのだが、話が複雑すぎるかな。

精神病院というより老人ホームというような施設に隔離されようとするメディア王と後継者である娘たちの物語。そこは間違いようもなく『リア王』なんだが細部があまり読み取れない。二人の娘から施設に隔離されそうになるところで逃げてい彷徨う物語なのかと思う。末娘のフロレンスが父を心配して探しているのだが、なかなか見つからない。

どうにも面白くないので途中でギブアップ。これだったらシェイクスピアの原作を読んだほうがいいと思った。セリフはシェイクスピアの方が面白いのだし、情景描写とか他の部分なんだと思う。アトウッド『獄中シェイクスピア劇団』が面白かったのはパロディと共にそこに批評性があったからだと思うのだ。

橋本治『リア家の人々』はリア王の舞台を現代(戦後昭和)の日本社会に当てはめたから面白かったのかもしれない。昭和の時代を知らない人が読んでも面白いかはわからないが、いわゆる昭和オヤジ世代あるあるで相槌を打てる小説だったのだ。

しかし『ダンバー メディア王の悲劇』は共感する部分が見えてこない。まあ親の介護問題というのはあるかもしれないが、ダンバーに共感できないのは、メディア王なのになんたるザマかということのなのかもしれない。そういうのもあるだろうとは思う。TV時代は過ぎてネット社会なんだという。そういうのが見えてこないんだよな。道化のピーターがそういうTVメディアというものを表していたのかもしれない。そこが面白く感じないのだから仕方がない。そしてピーターはさっさと役を下りてしまうし。

父と娘の家庭劇の枠に当てはめただけならパクリと同じなんだと思う。全面的にシェイクスピアによりかかりすぎのような気もする。新しさが見えてこない。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?