見出し画像

GWにボードレール『パリの憂鬱』を読む

『パリの憂鬱』ボードレール , 村上菊一郎 (翻訳) (角川文庫)

推敲に推敲を重ね出版の機会を待ち望みながら、ついに詩人の生前には刊行の日の目をみなかった詩集。「パリの憂鬱」は「悪の華」とならぶ、この詩人の代表作である。

散文詩は、憧れつつあまり読んだことがなかったが、ボードレールはお勧めである。韻文詩よりも、物語性を帯びているからイメージしやすい。詩と小説の中間ぐらいの感じ。ヌーヴォロマンの小説に近い感じ。

エトランジェ

君は誰を愛するのか?謎の人よ、聞かせてくれ、君の父か、君の母か、それとも姉妹か兄弟か?
私には父も母もいない。姉妹も兄弟もない。
では君の友達か?
あなたのおっしゃっるその言葉は、今日の日まで私には意味がわかっていない。
では君の生まれた国か?
いかなる緯度にそれが位置しているのやら私は知らぬ。
(ボードレール/村上菊一郎訳『パリの憂鬱』)

パリの昼間の喧騒。GWに相応しいような詩。

休みの人々が、至るところに、装い出て、楽しんでいた。それは辻芸人や手品師や動物見世物師や露天商人などが、一年じゅうの不景気をつぐなおうとして、永いあいだ、あてにしている大祭の一つであった。
 このような日には、民衆は、苦悩も労働も何もかも忘れてしまうものらしい。彼らは子供と同じになる。子供にとっては、それは休みの一日であり、学校に対する恐怖が二十四時間延ばされることである。大人にとっては、生活という意地悪い強権と締結をした休戦であり、あまねく勤労と闘争とにおける猶予期間である。(『パリの憂鬱』ボードレール訳村上菊一郎)

ボードレールの中にいる子供は、見捨てられた子供であるがゆえに自由なんだけど、貧しさがつきまとう。それはパリの路地裏の貧民街の情景だった。そこは色街でもある。色とりどりな衣装と香水とをまとった娼婦たち。そこに近づこうとする分身である犬は、香水よりも糞尿の匂いが恋しい。

犬と香水壜

「──わが美しい犬よ、わが善良な犬よ、わが親しいワン公よ、さあ、ここへおいで、町一番の香水屋で買ってきた上等の香水の匂いを嗅ぎにおいで」
 すると犬ははげしく尻尾を振りながら、思うにそれは、このような可憐な動物においては、笑いや微笑を示す表現なのだが、近寄ってきて、物珍しげに、栓を抜いた香水壜に、その濡れた鼻をおしあてる。それから不意におびえてあとずさりしつつ、咎めだてでもする格好で、私に向かって吠えたてる。(同書)

だが老いぼれて孤高の老人は、その娼婦の髪の毛の匂いにまとわりつきながら、馥郁に満たされた時を感じるのだ。ボードレールの二面性。幼い時期に母親に捨てられた記憶とその母親を恋しいと思う現実。娼婦との恋の詩が語られるが、それは詩人の醜さと対になる。天使の輪っかを拾った道化詩人の姿なのだ。ボードレールの崇高な宗教性は父が教父であったから。その馥郁のお香(理想の父)と香水(堕落した母)は対になる関係なのである。

老いた詩人は、いたずらに懈怠の時をパリの憂鬱の中に消費する。それは19世紀という貴族社会から資本主義社会へと様変わりするパリの姿であった。老いた詩人の狂人の夢の世界。

この世は一つの病院で、そこにいる患者たちはおのおのその寝台を換えたいという望みに憑かている。ある者はせめて暖炉の前に行けば我慢もしようと思い、ある者は窓際へ行けば病気が治るだろうと信じている。
 私も今いる場所でないところへ行けば、いつも幸福になれるような気がする。それゆえ移転の問題は、私がたえずわが魂と議論を交えている問題の一つである。(同書)


この記事が参加している募集

#読書感想文

189,685件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?