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シン・短歌レッス59

今日の一句

最近山吹が好きなんだ。なんでだろう?映画観た影響かも(すぐ影響される)。

あと『源氏物語』もあるな。夕霧が紫の上を桜に、玉鬘を山吹にたとえていたと思った。

ついでに『やまぶき』から作った映画短歌があったが出来てなかった。

山の陰咲く日陰の花の
やまぶきや
遠いひまわり 国を見ている

修正。

山の陰咲くやまぶきや
桜でも
ひまわりでもなく山吹ぞ咲き

係り結びとリフレインで強調した。「山吹」は晩春なんだよな。今咲いているんだけど。よく調べたら「金糸梅」のようだ。時期的に開花が違うものな。間違いはある。「山吹色」のイメージから「山吹」だと思ってしまった。今日の一句。

金糸梅山吹よりも堂々と

「うたの日」

今日の本歌は、小野小町だ。推しの子のユニット名がB小町だった。母親がA小町だっけ?いや。母親もB小町だった。思い込みは良くない。調べてから発言しろ。B級のアイドルの意味なんだそうだがA級のアイドルじゃんか。

「推しの子」はいざB小町親の色うつりけりなながめせしまに

さっき見た「推しの子」だった。

しょうもない短歌を作っている無職のおっさんです。

在原業平の和歌


『古今和歌集・羇旅』

名にしおはばいざ言問はむ都鳥我が思ふ人はありやなしやと  在原業平

「名にしおはば」は、「名にし負はば」。そのような名をもつに値するという意味だそうだ。漁師に「その鳥はなんて名だ」と問うたら「都鳥」と素っ気なく答えたので、それを詠んだのだ。ただ当時の都(京)には都鳥(ユリカモメかと思われる)はいなかったのでそれを訪ねても答えが返ってくるわけではないという残念な気持ちを詠んだのだ。

「うたの日」の投稿は「いざ」が入っているからこっちにすれば良かったかな。こっちを本歌にすると。

エゴサーチいざ言問はむ推しの子は炎上してもかける言なし

こんな感じか?こっちの方がいいかな。こっちにした。『推しの子』好きだな。「うたの日」は♪2つの出来でした。

藤原定家の和歌

41大淀の浦にかり干すみるめだに霞にたえて帰るかりがね

『新古今・雑』

前回と同じ「最勝四天王院障子和歌」なのだが、この歌は選ばれていた。「大淀の浦」は三重県の伊勢湾にのぞむ海岸。「みるめ」は海藻の一種。「見る」との掛詞。

『伊勢物語 七十五段』を踏まえているという。女が冷淡な態度の歌で、それに対しての相聞歌。

(女)大淀の浜に生ふてふみるからに心はなぎぬ語らはあねども
(男)袖ぬれて海人の刈りほすわたつうみのみるをあふてやまむとやする

42名もしるし峰のあらしも雪とふる山さくら戸のあけぼのの空

嵐山で迎えた朝の情景。五句「あけぼの」は「開け」の掛詞で「開けた扉」の意。初句「名もしるし」で「名前通りだ」そこから嵐山の情景と風で散らされる山桜が詠まれる。出来過ぎじゃないか?本歌。

あしひきの山さくら戸をあけおきて我が待つ君をたれかととどむる  詠み人知らず

『万葉集巻十一』

『万葉集』の歌は男を待つ女の歌。「山さくら戸」は「山さくらに近くにある戸」の意味。定家の歌は順徳天皇の「内裏詩歌合」での作。定家51歳の自信作で『新勅撰和歌集 春下』に収録。

43鐘の音を松にふきしくおひ風に爪木(つまぎ)や重きかへる山人

「爪木」は焚き木する折った木。本歌はないようだが、尾崎放哉の自由律を連想させる

鐘ついて去る鐘の余韻の中 尾崎放哉

尾崎放哉は静寂さの中から逃れたい感じだが、定家の歌は風の不穏さと鐘の音が共鳴してくる感じ(さらに薪である爪木を背負っているという)。放哉の本歌取りだな。パクりやがってと定家の声が聞こえてきそう。背負うものがある定家と放哉の違いだろうか?

44初瀬女(はつせめ)のならす夕(ゆうべ)の山嵐も秋にはたへぬしづのをだまき

本歌。
初瀬女のつくるゆふ花み吉野の滝の水沫(みなわ)に吹きにけらずや

『万葉集・巻六』

「達磨歌」というのは禅問答のような難解の定家の和歌に付けられたキャッチコピー。「初瀬女」は初瀬という土地の女そのままの意味。「しづのをだまき」は賤女(しずめ)が用いる糸を取る道具だという。

本歌の夕(木綿)花と初瀬の夕べの嵐を強引に結びつけた(『伊勢物語』を彷彿させる)わかりにくい和歌だという。さらに「秋」は「飽き」の掛詞であるから「飽きられた女」の意味がある。

45昨日今日雲のはてにながむとて見もせぬ人の思ひやはしる

「初恋の心をよめる」という詞書。恋人のことを思いながら、ただぼんやり雲を眺めているという歌。自分の気持もしるよしもないというナイーブな和歌だが、定家はすでに五十を過ぎているのだから面白い。これも本歌から得た発想であろう。

本歌
夕暮れは雲のはたてに物ぞ思ふあまつ空なる人を恋ふとて  詠み人知らず

『古今集・恋』

「ぞ」の係り結びが「思ふ」は「思ひ(連用形)」ではないのか?昔の人も間違うんだから文法なんて勢いだよな。返って間違っていたほうが初な人に思えるかも。でも調べたら終止形に付く助詞もあるのだった。この辺が分からなくなる。

この「初恋」は初めての恋ではなく、恋の始めということらしい。五十過ぎのおっさんの恋でもあるわけだった。

山頭火の自由律

今日は山頭火をやろう。山頭火もお経を読んだりして偉い人かと思ったら「観音経」は一番短い現世利益を得るためのお経だったと知り、少しは安心したのだった。

山頭火も最初の頃に戻って十首総て書き写してから解説を見よう。

法衣こんなにやぶれて草の実
旅のかきおき書きかへておく
旅で果てることもほんに秋空
あの雲がおとした雨にぬれてゐる
雨なれば雨をあゆむ
炎天の下(もと)を何処へゆく
酔うてこほろぎと寝てゐたよ
こほろぎに鳴かれてばかり
酔ひざめの星がまたゝいてゐる
どなたかかけてくださつた筵あたゝかし

「法衣」は「ころも」と読む。「こ」が音韻なのであった。ころころする草の実という感じか「木(こ)の実」の方が良さそうだがそこまでやるとあざとい。草の実という野旅の様。
「旅のかきおき」は遺書。
山頭火は空を見上げる句が多いのは旅そのものだからか?「あの雲が」の句は最初は「あの雲が落とした雲か濡れている」だったのを、「あの雲が落として行つた雨に」になり、自選集の決定稿になった。山頭火も改作をするのだった。
山頭火は秋の句が多いのか?春もそれなりに作っているのだろうが、捨ててしまうのだろう。今日の自由律。

作つては捨てる自由律

俳句レッスン

俳句レッスンは、ネット句会用のレッスン。今回は文語に挑戦したいと思ったので『俳句のための文語文法入門』佐藤 郁良(角川文庫ソフィア)をテキストに。基本に忠実ということが出来るか?

今日は「や」「かな」「けり」という基本中の基本。「や」はなんでもつく助詞で、切れ字として詠嘆を表す。耳タコやの助詞だった。

「かな」は文末の詠嘆だが、名詞か連体形に接続。「~こと」に続く形。

「けり」も文末の詠嘆だが、連用形に接続するのだった。いいきり形の助詞。まず連用形を知ることだった。

早くも挫折する。活用の二番目ということでいいのか?連用形になるのは文語助詞では「き・けり・たり」だけだと覚えればいいのかと。このへんは覚えられないよな。今日は「けり」を重点的にやろう。
「か・かな・けり」は併用しない。それは3つとも詠嘆の助詞で、どっちの詠嘆を表すかあやふやになるからだった。
句の印象が分散するから。
ただ例外もあるのだった。

降る雪や明治は遠くなりにけり  中村草田男

今日の一句。

初恋の水羊羹を冷やしけり

前日から彼女のために水羊羹を冷やす男をイメージした。羊羹は漱石をイメージ。

映画短歌

『カルメンという女』。本歌取り映画短歌。

カルメンや遭うも逢わぬも
地獄花
知るも知らぬもミー&ケイ

ピンクレディの歌で落とした。


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