見出し画像

シン・短歌レッスン29

写真はヒイラギナンテンだという。ヒイラギなのかナンテンなのかどっちなんだと言いたくなる。でも世の中そういう中間層も案外多いのだ。白黒だけじゃない灰色の世界。

葛原妙子短歌


塚本邦雄『百珠百華』

塚本邦雄は葛原妙子の短歌からその影響元になったものを探索しようとする。その数限りない本歌取りが彼女の短歌の歌風だと見るのである。それは虚構性という彼女の身体的なものの基盤よりは理想の歌という理念的な短歌なのだろう。その先に斎藤茂吉を探ろうとするのだが。

ここではアンデルセン童話と「薄ら氷」。「薄ら氷」を検索したら林原めぐみのアニメ主題歌に当たった。椎名林檎作詞だ。椎名林檎の歌詞から葛原妙子が感じられる。本歌取りというより、本歌取られということか?そうして歴史は繋がっていく。

模範十首

今日は塚本邦雄『百珠百華―葛原妙子の宇宙』から。

あらそひたまへあらそひたまへとわが呟くいのちのきはも爭ひたまへ  『橙黄』
わが繼母(はは)が白き額に落ちゆきし山川いづことおもふにもあらず  『橙黄』
すごき聲山鳩啼けりといにしへも歌ひたらずやわが谷探し  『橙黄』
水かぎろひしづかに立てば依らむものこの世にひとつなしと知るべし  『橙黄』
「老辻音楽師(ライエルマン)」歌ひつつうる霧の人も軍人(いくさびと)山をくだると  『橙黄』
とり落さば火焔とならむてのひらのひとつ柘榴の重みに耐ふ 『橙黄』
花ひらくこともなかりき抽象の世界に入らむかすかなるおもひよ  『橙黄』
殲滅といふ軍(いくさ)言葉なれ鏖殺といふは魔の言葉なれ  『橙黄』
早春のレモンに深くナイフ立つるをとめよ素晴らしき人生を得よ  『橙黄』
ちちのみの父を葬りし日の挽歌濃かりしことはのちも思はむ  『橙黄』

「あらそいたまへ」のリフレイン。上句の字余りの七八六七七。「たまへ」という命令形尊敬語から目上のものに対しての反発だという。それは「いのちのきは」もというのだ。最後の「爭いたまへ」の漢字表現が彼女の決着の仕方だった。
「繼母(はは)」というルビがポイントだという。「けいぼ」でもなく「ままはは」でもない、「はは」と呼ばなければならない時に、「白き額」という血の気が失せた様に「山川いづことおもふにもあらず」と転調する。葛原妙子の血縁の歌は異常に熱くまた覚めている(客観描写)。
西行の「古畑のそばの立つ木にいる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮れ」の本歌取りか?西行の歌は『山家集』の雑であり、『新古今集』の雑でも「ゐる鳩の」となって入選している西行の代表歌。葛原妙子は西行の骨のある詠風に親しんでいたという。「歌ひたらずや」の反語の呼びかけに応じるものはない。それに応えられるのは佐藤義清(西行)一人であろうと。
「水かぎろ」は「水陽炎」。「知るべし」の「べし」を魔の助動詞という。その前の「立てば」の「ば」の決意といい、敗戦の情景の中に立つ葛原妙子だという。しかしドビュッシーの音楽ほど軽やかにという。
「ライエルマン」は筒琴(ライエル)男(マン)。うらぶれた街頭藝人だという。塚本邦雄はシューベルトを連想する。「辻音楽師」という歌があるという。

「柘榴」の果肉と子だくさんのイメージ。葛原妙子が好きそうな果実。
「抽象の世界」に入るという葛原妙子への親近感を発露するのであるが、葛原妙子と塚本邦雄の幻想短歌は根本が違うのだ。葛原妙子は生の発露であるのに対して、塚本は芸術の心情告白と読む。「花ひらくこともなかりき」の身体性を重視すべきか?
「殲滅(せんめつ)」は軍隊用語、「鏖殺(みなごろし)」は魔の言葉という。漢字の難しさにこれを書いたとすれば葛原妙子の教養の高さが伺える。まあ調べたんだろうけど普通は面倒で書く気にはならんよな。暴走族が得意な漢字だったりして。
「殲滅」は漢字で書くけど「レモン」はカタカナだった。全く違う人が詠んだ歌みたいだが。ただ「レモン」にナイフを立てる乙女は怖いかも。「素晴らしき人生を得よ」が青春の爽やかさなのか?塚本邦雄によれば、そんな人生てんで信じられていないという逆説だという。
血縁の歌は絶唱たりえる歌が多いという。挽歌と呼ばれる一連の名歌の一つとする塚本邦雄だった。それは家族合わせという葛原妙子の歌ならではなのか?「家族合わせ」とかいうと森田童子の歌を思い出す。
総じて葛原妙子の短歌は歌を連想したり、するものが多いような気がする。音韻的なこともあるような。あと本歌取りというスタイルなのか?


俳句レッスン

俳句も模範十句を並べて鑑賞することによって創作に活かす練習。今日も北王子翼『加藤楸邨の百句』から十句。

明け易き欅にしるす生死かな
はげしかり君が生涯とかの日鵙
顔の汗大きてのひらに一掃す
汗の子のつひに詫びざりし眉太く
炎昼いま東京中の一時うつ
とび終りたつ蟷螂が鶏の前
落松葉はいつめざめても雪降りをり
鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる
外套の襟立てて世に容れられず
鉛筆を嘗めねば書けず汗の農夫

罹災(空襲)のあとの句だという。悲惨な状況なのにユーモアが感じられる。「明け易き」が季語。「短夜」と同じ意味だという。
「鵙(モズ)」が読めなかった。振り仮名してもらいたい。百舌鳥と普通に書かない意味は?
「顔の汗」からの四句は省略の妙だという。「顔の汗」は性交後。
「落葉松」は省略の妙だという。「落葉松というものはいつ起きているとき見ても雪に降られているものですよ」の「ゐるものだ」が省略されていると言うのだがなんか違うなあ。
心情的な雪景色のように思える。実際の写生句(であったとしても)ではなく心象風景。いつも雪にふられているなんて、常識として考えればないだろう。
「鮟鱇」は「ぶちきらる」の言葉のおもしろさか?独特な表現だと思う。普通だったら「ぶち切る」となるのだが受け身型にすることで、これも自身が切られるような心情風景なのだろう。
それを受けているような「外套」の句だ。外套の襟を立てることでの鎧としての服ということか?「エゴ」を外套で覆っているのだ。つまりそこまでエゴが出せない己の弱さみたいなものか、強がりか?映画『エゴイスト』だな。

「鉛筆の」農夫の句もいまいちだった。上から目線的な。解説で「舐めねば書けず」という農夫の愚鈍さを劇的に描いているとするのだが、結局この農夫は書けなかったのだ。そこに哀しみがあるような。読みは逆だよな。

映画短歌

今日は『エゴイスト』。

洋服は鎧だといふ
エゴイスト
裸になりたく「夜へ急ぐ」か


この記事が参加している募集

#今日の短歌

39,052件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?