たまにはネットの接続も切って、考えろということか?
『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』千葉 雅也【著】 (河出文庫ち 6-1)
ドゥルーズと一緒で言葉が専門(特殊)すぎて半分以上わからなかったのだが、わかるところで収穫はあった。それまでのドゥルーズ解釈は、ベルグソンの持続という概念で世界と接続していく中で関係性のシステム(構造)に組み込まれてしまった。それをヒュームの切断という概念で読み直しを図ろうとするのである。持続/ 切断。スラッシュ/ がポイントで切断を表す。それは二項対立ではなくて生成変化を表す。
例えばそれまでの哲学は、否定神学のように、一なる神を否定するがその結果自ら神になるような哲学が主流となった。ニーチェの「神は死んだ」という言葉を信じながらニーチェの概念を絶対視してしまう権威主義的なもの。それはアイロニーの哲学だった。形而上学が一段上から目線でアイロニーで世界を眺め見るというのがソクラテスのプラトン以来の哲学で、その持続の上で否定神学的に哲学は展開されてきた。世界の関係性の中で存在すること。神=法の中で、例えば人間の欲望は制限を受けてきたわけだ。
それがフロイトの精神分析まで続いてきた。その中で一部の芸術家は病者とされて虚勢されてきた。形而上学/ 形而下芸術。神/ 動物という生成変化が人間が解放される道だと示したのがドゥルーズだった。その道がリゾームだ。樹木状に関係性を持たない生成変化。それは偶然性によるもので必然的な関係性ではない。そこにヒュームの偶然性の哲学がある。それはアイロニーではなくユーモアとしての哲学。それが生きる歓びに繋がる。マゾヒズムの哲学。法を転覆して自ら法になるのではなく(サディズム)、法を快楽に変えて生き続ける哲学。
それがどうして可能なのか?死の欲望ということなのかな。動物の快楽は生殖の為に限定的だけど人間は欲望が無限に続く。その最終形態が死であるということ。死を欲望する。フロイトの死の欲動「エロスとタナトス」なんだが、その架空のフィクションとしての世界が芸術活動なのかな。そこから書くという行為が生まれてくるのだが、カフカのようにということかな。ディックの小説をイメージすると否定神学の部分はよくわかる。神秘思想に憑かれてしまう。
(2021/06/15)
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