見出し画像

たまにはネットの接続も切って、考えろということか?

『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』千葉 雅也【著】 (河出文庫ち 6-1)

全生活をインターネットが覆い、我々は相互監視のはざまで窒息しかけている―現代の「接続過剰」から逃走するチャンスはどこにあるのか?従来「接続を推進する」ものと見なされがちだったジル・ドゥルーズの哲学を大胆に読み替え、「切断の哲学」を提示した本書は、人間の弱さや「有限性」をこそ思考する、世界的に特異な「生成変化論」である。巻末には千葉=ドゥルーズ思想を読み解くための手引を付す。異例の哲学書ベストセラー、文庫化。紀伊國屋じんぶん大賞2013/第5回表象文化論学会賞受賞。

目次

序―切断論
第1章 生成変化の原理
第2章 関係の外在性―ドゥルーズのヒューム主義
第3章 存在論的ファシズム
第4章 『ニーチェと哲学』における“結婚存在論”の脱構築
第5章 個体化の要請―『差異と反復』における分離の問題
第6章 表面、深層、尿道―『意味の論理学』における器官なき身体の位置
第7章 ルイス・ウルフソンの半端さ
第8章 形態と否認―『感覚の論理』から『マゾッホ紹介』へ
第9章 動物への生成変化
エピローグ―海辺の弁護士

ドゥルーズと一緒で言葉が専門(特殊)すぎて半分以上わからなかったのだが、わかるところで収穫はあった。それまでのドゥルーズ解釈は、ベルグソンの持続という概念で世界と接続していく中で関係性のシステム(構造)に組み込まれてしまった。それをヒュームの切断という概念で読み直しを図ろうとするのである。持続/ 切断。スラッシュ/ がポイントで切断を表す。それは二項対立ではなくて生成変化を表す。

例えばそれまでの哲学は、否定神学のように、一なる神を否定するがその結果自ら神になるような哲学が主流となった。ニーチェの「神は死んだ」という言葉を信じながらニーチェの概念を絶対視してしまう権威主義的なもの。それはアイロニーの哲学だった。形而上学が一段上から目線でアイロニーで世界を眺め見るというのがソクラテスのプラトン以来の哲学で、その持続の上で否定神学的に哲学は展開されてきた。世界の関係性の中で存在すること。神=法の中で、例えば人間の欲望は制限を受けてきたわけだ。

それがフロイトの精神分析まで続いてきた。その中で一部の芸術家は病者とされて虚勢されてきた。形而上学/ 形而下芸術。神/ 動物という生成変化が人間が解放される道だと示したのがドゥルーズだった。その道がリゾームだ。樹木状に関係性を持たない生成変化。それは偶然性によるもので必然的な関係性ではない。そこにヒュームの偶然性の哲学がある。それはアイロニーではなくユーモアとしての哲学。それが生きる歓びに繋がる。マゾヒズムの哲学。法を転覆して自ら法になるのではなく(サディズム)、法を快楽に変えて生き続ける哲学。

それがどうして可能なのか?死の欲望ということなのかな。動物の快楽は生殖の為に限定的だけど人間は欲望が無限に続く。その最終形態が死であるということ。死を欲望する。フロイトの死の欲動「エロスとタナトス」なんだが、その架空のフィクションとしての世界が芸術活動なのかな。そこから書くという行為が生まれてくるのだが、カフカのようにということかな。ディックの小説をイメージすると否定神学の部分はよくわかる。神秘思想に憑かれてしまう。
2021/06/15


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?