短歌レッスン83
茂吉短歌
ごく平凡な情景なのにこの異様な短歌はなんだ。「にんげんの」という第一声の言葉だろうな。『アス』というなんとなくミステリーな映画を連想する。「笑はざりけり」は「わらっていない」という意味だそうだ。普通だけど「笑っている」方が怖いと思うのだが。茂吉の心理と重なっているのかもしれない。それを冷静に観察する茂吉の方が怖い!
模範十首
道浦母都子(みちうらもとこ)は、全共闘世代なのかな。「白鳥」は希望なのだが、「遠き一人」が釈放された父だとする。その内面に入りこまないとわからない短歌ではあるが、「遠き一人」が遠距離の恋人だという解釈も成り立ちそうだ。
永田和宏は河野多恵子の夫歌人として身を潜めているが短歌は理科系の分析的なものが多いような気がする。けっこう理論家でもあるのだった。
小池光は『石川啄木の百首』でお世話になった歌人。どちらかというとセンチメンタル系だろうか?「傷待つ胸」に注意が必要で「傷持つ胸」ではないのだ。だから手術前。全体的に比喩なんだ。だから青春の傷つきやすさを歌ったという解釈。それも傷を得てない状態でのナイーブさ。
河野裕子は与謝野晶子直系という感じがする。夫が頭でこねくりまわす理知系短歌なら身体派。「近江」という土地は『万葉集』に結びつく。
三枝昂之(さえぐさたかゆき)。結構短歌雑誌では見かける歌人だった。妻は歌人の今野寿美だという。そういう身内的な短歌なのか。「降る」までが「杉の雨」の序詞になっているスタイル。杉の一本立ちした様子がそれで伺えるのか。テクニシャンである。
絶叫歌人福島泰樹の初期の頃か?他の短歌に比べると単純すぎるけど「カブト」はヘルメットのことだった。下句は言葉の使い方がありきたりだな。作者がこの運動に参加したかいなかが問われる短歌であり、それが存在理由なのかもしれない。
伊藤 一彦も安保世代の敗北後の短歌らしい。「鶴は怒りているにあらずや」が難しい。否定の反語。そこに晦渋さが潜む。素直な短歌ではないのだ。鶴の立ち振舞に美を見ているということであるが、それにしては晦渋している鶴である。
「淡青」がわからないとよくわからない短歌だが、「淡青」は東大のスクールカラーで広報誌「淡青」もあるという。そんな嫌味なCM的短歌なのか?「淡青の空」はあえて「淡青」と言わなくてもいいような気がするが東大出身者でもなかった。
岸上大作は安保世代の自殺歌人。自殺の理由は失恋らしいが高野悦子『二十歳の原点』的な読まれ方をするのかもしれない。時代性か。寺山修司の引用も。
佐々木幸綱は短歌世界の理論家だが、そういう短歌だった。「詩歌とは真夏の鏡」またわけのわからんことを言う。「真冬の井戸」ではいけないのか?「火の額」が示すように頭で考えるだけで「内蔵(こころ)」がない。それを歴史(短歌)の集積と解説するのもなんだかなあ。勇猛な作風は「男歌」と称されるとあった。なるほど。
「うたの日」お題。
また出遅れた。「観音菩薩」「薩摩揚」「げんなり」ここまでだった。ここまでだったら「薩摩揚」かな。ちょうど5文字だし我が短歌論で当てはめていけばいい。
このパターン。
薩摩揚の飛躍が突然すぎるか?
「げんなり」
「りんご飴」「飴と鞭」「鞭毛」「毛生え薬」「薬湯」「湯湯婆」。昼間寝てしまって午後から映画を観に行ったので夜の部しか残ってなかった。「薬湯」か「湯湯婆』。
これでいいか?ちょっと寄り添いすぎか。最後に湯湯婆をもってきて序詞的に温まる感じで。
結果
どんまいだった。一筆書きだったのにな。よくわからんよ。
トップ
一筆書きで似ているだけどな。この差はなんだろう。猫だからいけないのかな?でも猫の歌他にもあったが。しいて言えば出だしが平凡だったので目に止まりにくかった。後半勝負の歌だったから徐々に序詞にもっていったのだが。ゆたんぽの「だんだん」という形といい韻律といい自信作だったのに。
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