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漢字が難しいのが難点。

『文選 詩篇 (一) 』川合 康三/富永 一登/釜谷 武志/和田 英信/浅見 洋二/緑川 英樹【訳注】(岩波文庫)

中国文学の長い伝統の中心に屹立する詞華集『文選(もんぜん)』。紀元前二世紀から約八百年に及ぶ詩文の精華は、以降の中国文学の豊饒の源となり、万葉の昔から日本文学にも広く浸透した。彫琢を極めたその詩篇の全てを深く読み込み、精確な訳注を加える。(全六冊)
目次
巻19 補亡、述徳、勧励(補亡;述徳;勧励)
巻20 献詩、公讌、祖餞(献詩;公讌;祖餞)
巻21 詠史、百一、遊仙(詠史)

『文選』の詩篇ということで漢詩中心のようだ。元は120巻の文集だったのか。膨大な量である。

その中の「詩篇」だけでも文庫本で6巻もあるのだった。読み切れるかわからないが、日本の文芸でも手本とされたようだった。


巻19 補亡、述徳、勧励(補亡;述徳;勧励)

「補亡」は本文の詩が無くて(喪失した形)でそれを補う形で説明文が載せられているのだが、それも詩と思えば思えなくもない。6首が普のそくせき(いきなり漢字が出てこない)によって書かれている。詩人というより古典学者だったようだ。その詩篇の元祖のような感じなのか、詩篇は政治詩(美と風刺)なのだが、ここでは美(儒教的な孝行とか美徳)を歌っているようである。

「述徳」は道徳に関わる詩だという。謝霊運は東晋から南宋にかけての詩人。

『文選』に39首と2番目に多く詩が掲載されている。「述徳」は謝霊運の祖父の功績を称える詩(美化されているという)。

「勧励」は韋孟作とされるが疑問(その子孫が彼を称えるための詩であったという説)。夷王(漢の劉邦の弟の子)を諫める詩(諷刺)だが言うことを聞かずに国(西周)は滅んだ。叙事詩的な史書。

「励志」張華。三国志時代の政治家。自分に対する諌めの詩。儒教的な詩。

中国の古い詩形で四言詩。唐になって八連(律詩)、四連(絶句)などの詩法が確立される。音韻も重要な要素になっていた。

巻20 献詩、公讌、祖餞(献詩;公讌;祖餞)

「献詩(けんし)」曹植。『三国志』の魏の武帝(曹操)の子。兄の曹丕に王位継承に敗れて、兄に謝罪するための文であり(「始末書」みたいな)詩人としては、三曹(曹操・曹丕・曹植)の中では一番とされる。「我が身を責める詩」「詔に応える詩」の序文と詩。一度は反乱分子となったので必死の嘆願書であった。

最初の処刑は母によって聞き入れられたが二度目は自ら弁明しなければならなかった。そこに父と兄に対して自分はどんなに儒教的な忠誠心を持っていたのか並べ立てるのである。父と兄の偉大さの嘘八百ならべるのだが、それはあまりにも嘘八百だと相手も疑っているのである。そこで詩心で美しき虚構を現実世界だというように世界を構築していくのだ。そこに現実世界を超越した詩の力があるのである。これは言技(ことわざ)と言ってもいい。なるほど曹植が中国初期の詩人として偉大だったのはそういう理由があるのだ。「詔に応える詩」は自分が如何に忠誠心を持って父達のもとに駆けつけたかを誇張して述べたのであった。それは曹植が自ら置かれた立場を現実に理解して、恭順への気持ちの意向を示す必要があったのだ。そうした誇張表現は中国詩のテクニックとなっているのであった。また音律はいかにも自然のリズムのように吟じることによって、それが命運(裏切りも忠誠も天命)だと思わせるのだ。

曹植と曹丕の兄弟は運命的に争いが絶えない兄弟であり、その中で敗戦の将としての曹植の胸の内は激しい感情が渦巻いていたのだ。それを詩の言葉にすることで理性的であろうとしたのか?

「関中詩  潘岳」

潘岳の詩も誹謗を受けた後に弁明したものだった。逆に相手がどれほど自分を貶めようとしたか、忠誠心は嘘偽りのないものだと弁明の詩を書くがこの1年後処刑されたという。なるほど、その中に史実があって歴史が語られているので貴重な資料となるのだった。

関中での反乱は理の世界で当然の民たちのものであり、それを平定したのは権力者の力だという。矛盾していることを言っているようだが、権力者の正義がなされなけらならなかったのだ。

「公讌」曹植。ふたたび曹植の君主の儀式内での称える詩(宴の詩)。

「公讌詩」王粲。別の詩人の宴の詩。平安の季節の中での自然讃歌と王の偉大さを称えたもの。『源氏物語』の宴の詩に繋がっているのかもしれない。梅花の宴とかそうしたものの源流だろうか?

天運(星の軌道)まで支配する徳と権力が詠われいる。それが天帝のことなんだ。大将軍の宴会詩とか権力者武帝を称える詩が中国詩(漢詩)の原点になるのだった。

「祖餞」選別(離別)の詩。地方官など選別の宴の詩である。詩の源が宴にあったならば、惜別の情を詠う名詩が何度も反芻された行ったのだろうか?
曹植の洛陽の姿を詠んだ詩は人麻呂が遷都を詠んだ詩に近いようなその土地の荒廃した姿が詠われていく。董卓の乱によって焼き払われた都の凄惨さ。その中にあって育まれた友情は消えることがないと詠う。

巻21 詠史、百一、遊仙(詠史)

「詠史詩」王粲
歴史詩ということで叙事詩なのか?、曹植と時代を共にし建安七子という文学活動を通して曹操に仕えたようだ。

「秦」の穆公の死に三人の殉死者を描いた詩。善人三人を道連れにした「秦」の穆公を非難した詩は、曹植も同じ詩を書き、後の陶淵明にも「三良を詠ず」に引き継がれていく。

「詠史八首」左思
左思は容姿見にくく吃りでもあったが「洛陽」を称える詩で一躍注目を浴びた。貴族社会よりは反骨精神溢れる荊軻などを描いており、暗殺者の不遇は左思の共感を得るように描かれている。

「らんこ」盧諶
漢字が出てこないのでパス。


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