もし上野千鶴子がスペイン統治時代のメキシコの詩人だったら。
『知への賛歌――修道女フアナの手紙』ソル・フアナ, (翻訳)旦 敬介 (光文社古典新訳文庫)
メキシコの修道女が書いた詩と手紙。世俗的恋愛(同性愛)のような詩を書いたのでカトリックの告解師やメキシコ統治の大司教から批判される。その二通の手紙はカトリックの家父長制的女性蔑視に対する異議というもので、現在のフェミニズムに繋がるものである。彼女の主張は詩を書く表現の自由であり、それは神から抑圧されるものではない。信仰とは別の次元の話で彼女を貶める勢力は女性の社会進出を許さない従属した関係にさせているのだという。メキシコは当時スペイン統治下であり、セルバンテス亡き後のスペインで彼女の作品は人気を呼んだ。
芭蕉と同時代だそうで、まだ散文が確立してない時期の詩作品であるが、バロック的難解詩から、心情をわかりやすい言葉で発露した詩は急速に広まっていく。それに妬んだのか、脅威に感じたのか、カトリック側から非難の言葉が出たと思うが、黙っていない彼女だった。
そうした手紙は散文作品のようにも読めるという。光文社古典新訳文庫は解説が充実しているので、それを読むと彼女の重要性が理解できる。最終的には彼女も教会側に従属されるようなのだが、この頃の手紙は彼女が輝いていた時期なので今読んでも新鮮である。
当時のメキシコ統治の福官の夫人との恋愛詩のようなものもあって驚いた。貴族夫人のサロン文化(プルースト『失われた時を求めて』や『源氏物語』の世界を連想させる)のような、そういう場所で彼女の詩は自由なる精神を歌っていたので評判になり支持される。当然そういう詩はカトリック教会側から非難されるのであるのだが、それは当然であろう。メキシコという植民地であり女性という従属的な存在、カトリックへの反論の手紙が今のフェミニストのようで面白かった。
面白いのはスペインで最初に出た詩集の序文は当時のメキシコ統治の修道院長(女性を装い)が書いていたとされる反論で、一見礼儀正しく書かれているのだが、内容はかなり感情的になっている。それはソル・フアナは男が書いたのだとわかったようなので、女性が詩を書くことの欲望やまた世俗的な詩を書くのは貴族に請われたからだということで、宗教的なことを書かないのはそこまでは神の道を冒涜していないという論理展開でかなり鋭い意見を持った女性だったのである。それは自由に詩を書くことの表現の欲求であり、そこには男女の差は無いはずだという。
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