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『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』

「地下鉄サリン事件」の被害者と教団幹部の二人が当時に戻って旅をする。二人共京都大学在学中に麻原の講演に出会っている。で、その沿線(ローカル線)での鉄道の旅という趣だが、どういうわけか東京の地下鉄で二人の運命が別れゆく。

荒木浩アレフ広報部長は事件後に代表になったので直接は事件に関わりがないのだが、なぜ教団にい続けるのか?組織と個人の問題は、日本の戦争責任を思わせるところがある。麻原の罪を知っても理念さえ正しければ許されるのか?贖いとは?二度と同じ事件を起こさせないようにするには?

自分は勿論当事者ではなかったが、パソコン通信が全盛だった頃、哲学のフォーラムにオウムのEさんが入ってきて何度かやり取りをしたことがあった。なんだろう、自分は団体生活に馴染めないのとノイズだらけだからピュアーすぎるNさんとは対象的だったのだが精神世界の話は盛り上がった。

どちらかと言うと被害者よりも加害者になりうる可能性のほうがあったのかもしれない。ただその時期はちょうど結婚していたので、家族と離れることはできなかった。荒木氏の話で共感が持てたところがあった。弟の病気の話と欲しかった筆箱を手に入れた途端に色褪せてくる気持ち。

自分も父を病気で亡くしたのは同じようなわだかまりがあった。バブル華やかな頃の物欲まみれの世界は、どこか居場所がないような、精神世界を求めたものだった。ただそれも虚構だと覚めていたけど。オウムによる洗脳なのか彼の資質なのか、たぶんその両方なのだろう。

例えばオウムを離れたとしても、彼はこちら側には居場所がない。たぶん多くの若者たちが、カルトやネトウヨにハマるのも。それには対話が必要なのだろう。理解出来なくても違いを受け入れるだけの。映画が終わったらもう二人の対話はなくなってしまったようだが、あの川辺の石切遊びは胸を打つものがあった。監督は、映画後の質疑応答で「川に沈めてやろうと思った」と言ってはいたが。

石切の南無阿弥陀仏空を切り

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